さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

恋煩い(こいわずらい)砂時計

セミナー最終日の朝。

二日泊まって、もうチェックアウトが迫っているというのに、今更ながら初めて窓を開けてみた。ビルの隙間から小さく見える空はどんよりとした曇り空で、正面のビルにぶつかって跳ね返るその風は、起き抜けのTシャツ1枚だった僕の首元に容赦なく襲いかかってくる。刺すような冷たい風に首をすくめ、慌てて窓を閉め、編み込みのカーディガンを急いで羽織り身震いした。

起きてから点けっぱなしのTV。トランプ大統領来日のニュースもそこそこに、お天気アナのかわいい声が流れてきた。

「今日の最高気温は10℃以下で、正午からはお天気が崩れる地域もあるようです。お出掛けされる方は折りたたみ傘を持って、どうぞ暖かいい格好で。。。」

画面の中には真っ白なモフモフの格好に暖かそうなイヤーマフを着けた子が、ちょっと寒そうにビルの屋上でニコニコしている姿が映っていた。

 

身支度を整えフロントへ急ぐ。

まだぼんやりと、昨日見た彼女の俯いた寂しげな表情と、屈託のない笑顔の両方を思い浮かべている。

お世話になったホテルをチェックアウトした僕は、ガラガラとキャリーバッグを引きずりながら会場であるビルへと急いで向かっていった。

 

 

最終日のセミナー。

まずは「人は人が怖い」という話だ。

「あなたはエレベーターにひとりで乗っています。ひとりのときのあなたは自由で、心に余裕があり、何なら歌でも歌い出したい気持ちです」

笑い声がチラホラ。

「途中、エレベーターが止まってもうひとり乗り合わせました。あなたは何故か突然スマホを取り出し目を泳がせます。そうです。あなたは人が怖いのです。自分を知らない人が自分のテリトリーに入ってくることが不安でたまらないのです」

「途中から乗り合わせた人はどうでしょう。その人もあなたに背を向けてエレベーターのボタンを見つめています。そう、やっぱり人が怖いのです」

「基本、人は人が怖いものです。でも、それは、あなたの、ただの、先入観に過ぎません」

 

さて、と講師から課題が出された。

「それでは隣の人とペアになってくださーい。ペアになった人の目を見て、そーう、目を離してはいけませーん。そのままーそのままー。そのままOKを出すまでずっと見つめ合ってくださいねー」

「はい、始め!」

 

その日は最初から彼女の隣へ座ることができていた。探すことなく、偶然でもなく。それは彼女が着ていたコートを置いて席を確保してくれていたから。そして、遅れていった僕に「んもうっ」て頬を少し膨らませて、お互いプッと吹き出すくらい、ふたりはひとつに。

始め!の声に反応して、会場中に照れの空気がさあっと広がってゆく。

僕らも、ほんの少しだけ照れながら見つめ合った。

茶髪が目の上でパッツンと切り揃えられ、茶色い瞳が少し潤んでいる。コンタクトをしている彼女は、視力の悪い人特有のキラキラした瞳なのだ。人は恥ずかしさを紛らすために顔に手をもっていく。彼女は僕を見つめながら前髪を気にして、耳に髪をかけ直し、そしてちょっとだけ笑みが零れる。見つめる僕も、眼鏡をかけ直し、鼻をかき、きっと目尻はさがったままに違いない。

パン!と手の鳴る音とともに、彼女はまたも僕のお腹に軽くグーパンチを食らわせて、そして笑った。会場中に安堵が広がってゆく。人の目を見て話すって、けっこう大切なことなんだ。

 

セミナーは終焉へとまたひとつコマを進めていた。

それは僕らの時間も終わりに向かっているということ。僕は紙切れを手にとり「メール教えて」と書いて、彼女に手渡した。彼女は「アトデネ」と僕にしか聞こえない小声とともに、その紙切れをリュックに仕舞う。

このセミナーの後はすぐグループ行動になり彼女と離れてしまう。最後の1コマはこのセミナーを運営するスタッフとともに、次の新しいセミナーに参加するための説明会という悪魔の時間が設けられていた。

彼女とは、一緒に帰る夜しかもう話すことができない。彼女とともに受けていたその時間が楽しすぎて、僕らは連絡先を交わすという大切なことを忘れていた。何で昨日一緒に帰ったときLINE交換しなかったんだろう。セミナー中はスマホを取り出すことが出来ないので「アドレスを紙切れに書いてもらう」というアナログな方法しか、そのときの僕には思いつかなかった。

 

最終コマ。

少し遠くの席から後ろを振り返り、僕を見つけて胸の前で小さく手を振る彼女。

もっと、もっと話したい。ふたりでどこか遠くへ繰り出してみたい。

妻がいる。娘だっている。

それなのに、この抑えきれない衝動をどうしたらいいのだろう。一緒に食事をするだけ、一緒に東京タワーに行くだけ。正当化できないだろうか。

いままで生きてきた時間に比べればたった三日間だけれど、僕らは揺れるつり橋でしっかりと手を繋ぎ、支え合って歩んできた。愛の確認なんてしない。言葉なんか交わさなくても、身体が交わることなんかに意味はなく、ふたりはひとつになっていた。

出会いは偶然なんかじゃない。生きているなかで、こんなに濃密な時間があるのならば、それは間違いなく必然なはず。

離れたくない。

 

そればかり頭がいっぱいで、そのどうしようもない気持ちを抱えたまま、最終セミナーは終演を迎えていた。

ただ、どうしようもない気持ちのなか、僕は彼女を誘って東京タワーに行くことだけは決めていた。ふたりが出会った東京という街を、彼女と一緒に眺めることで自分の気持ちに何か踏みだす変化が訪れないかと、その可能性を模索していたから。

 

セミナー終了後、グループの面々と握手を交わす。三日間行動を共にした仲間だ。この面々ともこれはこれで必然だったのだろう。少しばかりの感慨がある。

僕は仲間たちに別れを告げ、すぐさま彼女を探す。さらに大金を注ぎ込む新しいセミナーへ誘導しようと躍起になったスタッフが、受講を終えた人たちを取り囲み、次々と席へと座らせ、少々強引に話しを繰り広げている。

そんな僕もスタッフに取り囲まれる始末。

次から次へと現れるスタッフにウンザリしながら「やりませんから」「あぁ、やりませんから」と振り切り彼女を探す。

 

いた!

ごった返す人の波をかき分け、彼女の元へたどり着こうとしたその横からスタッフの石川さんが現れ

「コウさん!こっち!」

と彼女の手を引いて連れ去ってゆく。

僕に気づいた彼女は握りしめていた紙切れをひらひらと振って

「マッテテ」

と、唇に思いを馳せた。僕は

「外で」

と、精一杯の想いを飛ばすしかなかった。

 

 

彼女はひとりであの難局を乗り越えられるだろうか。

僕はロビーのベンチに腰掛けて、もう中身が空になっているペットボトルをずっと握りしめている。

 

スマホに目を落とす。

23時33分が湘南新宿ラインの最終だ。

すでに23時を回っている。駅までは、頑張れば10分と掛からずたどり着けるはず。それでも。

警備員の目を気にした僕はビルの外で待つことにした。

 

外は、いつからなのか小雨が降り始めていた。

「折り畳み傘、か」

と、こんなとき彼女なら絶対「もうっ」て頬を膨らませてリュックから傘を出してくれるんだろうなあ、なんて考えていた。

 

 

 

時間だ。

 

 

 

 

 

 

彼女は来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は小雨のなか、静かに駅へと歩き出していた。彼女が追って来ないかと、何度も、何度も振り返りながら。

 

出会ったその瞬間から別れのカウントダウンは始まる。

神様は、僕たちふたりに透明な砂時計を渡した。それがどれくらいの大きさか、ふたりにはわからない。ただ、ふたりが出会ってからの想い出がゆっくりと硝子に降り積もってゆき、やがてその降り注ぐ砂は残像だけとなり、そうして硝子の向こう側をはっきりと映しだしたいま、僕たちは終わったのだ。

都庁を越え、僕はもう振り返らなかった。昨日ここをふたりで歩いたとき、こんな結末がくることなんて少しも考えていなかった。

新宿駅西口はまだ賑やかで、ただ、そのキラキラと輝くネオンに、いま僕は色が感じられないでいる。

 

 

昨日別れた改札口。

 

 

今日は、ひとりで通り抜ける。

 

くるっと振り返って、僕は胸の前で小さくバイバイした。

 

 

 

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エピローグ

 

電車に乗った僕は、彼女が見せてくれた笑顔をひとつひとつ思いだしながら自分を責めていた。

もし、僕に勇気があったなら、強引に彼女を連れだすことができたんじゃないか。

もし最終なんか気にせず彼女を待っていたら、違う未来があったんじゃないか。

彼女のことは「コウ」という苗字だけしかわからない。何故連絡先をもっと早く交換していなかったんだろう。

 

僕は彼女とつり橋を渡りながら、ひとり置き去りにして、引き返してきたのだ。

 

 

 

きっとこのまま僕はこの日のことを忘れてしまう。それは哀しいことだけれど。その哀しみさえも、やがて忘れてしまうだろう。

 

神様がくれた砂時計は、胸の中の大切な場所にしまわれて、そして、いつの日か僕が土に還ったとき、その砂の想い出は「もうっ」と頬を膨らませて笑いかけてくれるだろうか。

 

 

 

いま、僕だけを乗せた電車は大きな音を立てて荒川を越えてゆく。

 

 

 

 

 

 

えっと、あとがきです

(続