恋煩い(こいわずらい)逃亡
二日目の最終セミナーだけあって内容は佳境を迎えている。
自己啓発セミナーも明日を残すのみだ。熱く語る講師。その熱血トークに感化された受講者たちの集団はどんどんと熱気を帯びてきていた。それはもう室内の空調を脅かすほどに。
紙切れに
「暑いね」
とだけ書いてチラッと見せる。
するとちょっとだけ顔を傾け横目でクリっと見つめて「ネッ」と唇を動かす。
そんなことをよそに、ますます白熱するセミナー。
僕は無意識のうちにペットボトルを取り出すと、少しだけ口に含んでいた。
セミナーが1回3時間と言う長丁場なので、ペットボトルで水分を補給することはOKだった。それはセミナーの最初、スタッフに説明されていた。ただ、あまり飲むとトイレに行きたくなるので、もうほんの少しだけ。
すると、手の甲でコンコン。
「んっ?」と横を向くと彼女がまた口の動きだけで
「チョーダイ」
と言う。
彼女の手のひらを見ると、さっきのキャンディーをチラつかせて「さっきあげたでしょ!」みたいな、ちょっと企んだような悪戯っぽい顔で
「ハーヤークー」
正直ドキドキする。いや、こんなのよくあることじゃん!とか思う。
そっとペットボトルを手渡すと、わざと同じ角度にペットボトルを構え、横目でチラチラと僕の様子を伺いながら、少しだけぬるくなった水を共有した。
「こんなの普通よ」みたいに振る舞う彼女は、こっちを見ずに、わざと熱弁を奮う講師のほうだけを向いて
「アリガト」
と小さく唇を揺らした。
講師のボルテージは最高潮に。
「この中でまだ挙手してない人はいますか!それはまだあなた自身がこのセミナーの本当を体験していなってことですよ!」
「ここはテニスコートです。あなたはコートで試合をしていますか?それとも観客席で批評しているだけですか?」
「観客席にいるならばコートに降りて試合をしてみて下さい。景色が違う!見える世界が違うのです!あのコースに決めたらよかったのに。。。じゃないんです!あのコースへ決めるために、その一点だけに集中するのです!」
僕らは観客席の端っこで違う話をしていた。いや、違うコートで別の試合をしていたのかもしれない。セミナーの内容は「家族に心を開く」のようなテーマで、彼女は自分の年の離れた弟についてボソッと呟いてくれた。
「オトウト イジメタコトアル」
それは彼女の本当の悩み。
ただセミナーの途中だし「後でね」と講師に目を付けられないよう僕らはひっそりと景色に同化した。
そして彼女の「うん」は、それは、どちらからともなく一緒に帰るという約束になった。
スタッフが声を張る。
「それでは今日のセミナーはここまでです!次回のセミナーに応募される方は後ろの席で所定の用紙にご記入ください!よろしくお願いします」
なんと最終セミナーの前に次回へ応募させる仕組みなのだ。セミナー自体はなかなか面白い話なのに少しだけ残念に思う。
僕も彼女も次回に応募する気持ちなどサラサラない。応募する人たちの列をかき分けて帰ろうとすると、さっきの石川さんが目聡く彼女を発見し、話しかけてきた。
「コウさん、次も来るわよねぇ。ねっ!この用紙書こう!」
と彼女を僕から引き離し連れ去ろうとする。
僕はとっさに
「彼女、家族にいま電話するみたいですよ、さっきのセミナーで家族に電話するってあったじゃないですか。早く電話しないと寝ちゃうらしいので。。。」
「ねっコウさん、早く電話したほうがいいよ!」
とグイっと彼女の手を握り、ごった返す人の波をかき分け、ふたりで逃亡した。
エレベーターを使わずわざと非常階段で降りる。
10Fから1Fは相当つらい。
でも、手を繋いだまま僕らは一気に1Fまで駆け下りて、のろのろ開いた自動扉の前から"いっせいのせっ"で、ふたりでピョンとジャンプして外へ飛び出した。息を切らせながらお互い顔を見合わせて大笑いする。高層ビルの隙間から見える空には月が煌々と光っていて、そんな月を見上げながら、心の中ではRADWIMPSの「前前前世」のイントロが始まっていた。
僕らは駅に向かってゆっくりと歩きだした。
手を繋いでいたことが急に恥ずかしくなって、スマホを取り出す。
都庁からのビル風がふたりに吹きつける。
「寒っ」
と肩をすくめた。彼女は身体を少しだけ寄せて、その左手を僕の右腕に少しだけ滑りこませ、恥ずかしそうに袖口の内側を掴んでいた。
駅まではわずか10分ほどで着いてしまう。
僕はスマホで自分が働くBARのホームページを表示させて「こんなお店やってるんだ」と見せてあげた。
目をまるくした彼女は
「カッコイイネ!ワタシ イキタイ!」
とハイテンションで褒めてくれる。
「いつでも来て!」
と、これはもう本当に彼女に僕のお店を見てもらいたいという一心での声。
そして歩きながら、さっきの弟の話に戻った。
弟とは12歳も離れていて、いま重い病気で入院生活を送っているという。弟は覚えてないだろうけど、まだ小さかった頃、八つ当たりして弟を叩いて泣かせたことがある。気がつくと、彼女は伏せ目がちに足元の冷たいアスファルトへ話しかけていた。
僕は、
「弟さんに、いまの話してみたら?正直に」
と、言ってみる。
彼女は
「ソンナノ ワタシナイチャウ」
と、笑顔を作り、ちょっと戯けたフリをして、でもそんな彼女の真剣な眼差しは、このことが占める心の重さをよく表していた。
「難しいね」
とだけ呟き、僕は彼女の手を挟むように右手をポケットに突っ込んだ。
本当は彼女を抱きしめてあげたくて、でも彼女を抱きしめるなんてとても出来なくて、それは思いつく精一杯の悪あがきだった。誰かのヒットソングじゃないけれど、その瞬間彼女をそっとポケットにお招きしたい気持ちと抱きしめたいと、でもどこかに理性のカケラがあったのかもしれない。
彼女の手はもう完全に僕の右腕をしっかりと巻き込んでいて、それはもうどこからみても恋人同士のそれにしか見えないはずで、そのくせ僕らはお互いの気持ちを声にだすことは絶対にしなかった。その境界線から飛びだすことは、ふたりの覚悟であり終わりの始まりとわかっていたから。
青い月が僕らふたりを照らしている。
叶わぬ恋と知っていても、セミナーという異空間にいた僕らふたりは完全に別世界にいた。駅までのほんのわずかな時間、わざと信号を守ったり、押し合ったりしてわざと蛇行したり、彼女の髪が揺れるたび、僕はカウントダウンが進んでいることを忘れられた。
明日が終われば、また日常に戻ってしまう。
彼女とはまた会うことが出来るのだろうか。
駅に着く。
彼女と改札口の前まで。
彼女は僕から手を離すと改札を背に僕の正面に回り、少しだけおでこを僕の胸にくっつけた。
ほんのちょっとだけ時間が止まる。
「ハイッ!」
と言って彼女はすっかり笑顔になって、
「オトウト ニ イテミルネ!」
とお腹にグーパンチをした。
「うん」
とだけ僕。
さっと背を向けて改札を抜けた彼女は、くるっとこっちへ向き返し、手のひらをピッとおでこに当てて敬礼のポーズ。そして
「アリガト」
と唇を動かすと、そのままこっちを向きながらゆっくりと後ずさり、胸の前で小さく手のひらだけ動かしてバイバイした。
彼女の後ろ姿が見えては消え見えては消え、新宿駅の人混みに飲まれて見えなくなってからも、しばらく僕は立ちすくんでいた。
それはもう温かいような、それでいて切なくて。
空を見上げる。
さっきまで見えていた月に少しだけ雲がかかりはじめ、僕は胸の温かい余韻を少しでも長く感じようと上着のボタンを上まで閉めてポケットに手を突っ込んだ。
(続