さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

「祝う」という生き方

つけっぱなしのラヂオからタレント予報士のかわいい声が聞こえている。桜の開花宣言が一日早いとか遅いとか、でも外はそんなに暖かくなくって、クリーニングに出そうと思っていたコートをまた引っ張りだすという始末。「予感」とやらに僕は油断してしまったらしい。

 

今日は結婚式2次会のパーティー営業だった。ひとりで40人分の料理を作り、そして提供する。アルバイトがお酒を提供してくれるのだが、料理はひとりでやるしかない。大きな予約は嬉しいのだが「ひとりっきり」というそこは個人店のツライところでもある。

昨日は送別会、一昨日も送別会のパーティー営業だった。ここのところまともな休みが取れていない。外注すれば済むのに何故かカルパチョにする魚を1枚1枚手切りで100枚、200枚と揃え、おかげで手首と背筋がゴリゴリに凝っている。そんなことばかりしている。

 

深夜3時。片付けを終え外に出ると、まだ雨はしくしくとアスファルトを濡らしていた。壊れたビニール傘をさしながら駐車場へ向かう。少しだけ土の匂いが鼻をくすぐって「そういえば」と、昼間流れていた開花宣言のニュースを思いだす。桜はまだ咲いてはいない。

駐車場には主の帰りを待っていたであろう雑巾のような車がぽつんと佇んでいる。12月に洗車機で洗ったきりの薄汚れた車だ。僕は疲れた体でありながら、振り払うよう颯爽と車に乗り込みエンジンをかけた。

 

カーラヂオからは日曜の夜だというのに、無駄に元気なパーソナリティーが何やらまくしたてている。ボリュームを少しだけ絞り、ぼんやりと運転をする。

 

 

 

いままで人を祝ってばかりの人生だった。

結婚して子どももいるが、クリスマスも誕生日もずっと父親として参加することはなかった。日曜日は常に仕事だからだ。息子の誕生日であっても当然のように仕事が優先される。自分の子どもよりもまず先に、他人のクリスマスや誕生日をせっせとお祝いしてあげる。それが僕の仕事なのだ。入学式、運動会、卒業式。全く無縁である。「〇〇ちゃんの家は母子家庭なの?」と近所では評判だったらしい。レストランで働く僕の帰りは早くても0時過ぎであり、近所の子どもが僕の姿をみる事はなかったのだろう。妻は笑いながら話してくれて、僕は大笑いした。心はひゅんと冷たくなったけれど。

思えば僕の父親は公務員であり常に家にいた。囲碁が趣味のため本当に家から一歩も外に出ることがない人だった。そんな僕の小さいころはクリスマスも誕生日もだいたいケーキがあったし、プレゼントだって買ってもらっていた。そこに親の愛があったかどうかなんてわからないけれど、平凡な家庭だからこそ平均的な幸せに満ちていたのだろうと今なら容易に気付くことができる。ただ毎年繰り返される儀式のような記念日とかケーキとかプレゼントだとか、果ては杓子定規な父親の姿とかが当時の僕は嫌でたまらなく、公務員とは真逆の料理人という日銭を稼ぐ安定しない職業に憧れていたのだ。

サービス業、主にレストランなど飲食業の人は土日祝の休日は稼ぎ時であるため必然的に休むことはありえない。休みは平日に取得するわけで、これはこれで映画館は空いているし車の渋滞もなく快適だったりするので、そうそう悪いことばかりではない。ただ家庭を持つと、子どもと一緒にいる時間があまり取れないという現実に直面する。それが子どもにとって悪影響なのかどうなのか全くわからないけれど、親として少々引け目に感じて止まないのである。決して育児放棄なわけではないけれど、どうにも生活時間帯がズレてしまうのだ。それでいて子どもの誕生日すら一緒にいられない父親が、全く他人の誕生日ケーキなどを一生懸命作って「おめでとうございます」などと抜かしている。本当間抜けな話である。

それでも、その人の大切な記念日はその日しかなくって、変えることなんてできなくって、その大切な時間を自分に託してもらっていると思えばこんな嬉しい気持ちは他では味わえない。「今日は美味しかったです、ありがとうございました」などと言われた日には、疲れなど簡単に吹き飛んでしまったりする。なんとも単純極まりない職業なのである。

 

 

息子はすでに大学生である。妻の教育がよかったのだろう、真っ直ぐな性格で良い子に育っている。親バカだ。父親がほとんど家に居なくても子は育つのである。妻には感謝しかない。そんな息子とは、親子の会話がほとんどない。幼少期に触れ合ってないせいもあり、どこか遠慮があるのだろう。と思う。いや僕の主観であって、自分でどう接してよいかわからないのが一番の原因だろう。こんな父親をみてどう思うのだろうか。きっと若かりし頃の僕のように、真逆の公務員を目指すのではないかな?などと思って楽しみにしている。

 

 

カーラヂオから、誰のリクエストなのか松田聖子の青いサンゴ礁が流れてきた。現実は深夜であれ、なんだかいい気なものである。「春も行ったり来たりなのに何故この曲?」と曇りはじめたフロントグラスに向かって僕はぼやいている。そのくせ鼻歌交じりなのだ。