さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

恋煩い(こいわずらい)ぬくもり

二日目の朝、ひどく寝坊した。

実はセミナー初日を迎えるにあたって、ほとんど睡眠が取れていなかったのだ。

 

 

BARの夜は長い。

会社から出向という形で赴任した無理矢理な人事ではあったけれど、BARの仕事を始めてみれば接客は楽しく、むしろ面白かった。本当は人見知りのくせに。

 

その晩は特に忙しく、薄明るくなる閉店ギリギリまでお客さんに付き合っていて、そのお客さまの後を追うように店から駅へ走り、始発に飛び込み、青空が広がる新宿のホテルへ直行すると、セミナー開始までの残された時間はわずか小一時間ほどだった。これが初日の朝。

 

 

 寝坊。。。「よく寝た。。。」と、まだ眠い目をこすり、スマホを横目で確認する。8:34のデジタル表示。セミナー会場まで歩いて5分もかからないけれどさすがに。。。と、はっきりしない頭でぐだぐだ考える。セミナーは9時からだ。「朝食」なんて悠長なことなどいってはいられない。自販機で買ったコーヒーを一気に飲み干した僕は、小走りでビルの谷間をすり抜け、最後は息を切らしながら笑う膝を両手で抱え、なんとかセミナー会場へと滑り込んだ。銀色に反射する鏡張りのビルの中、ポケットから取り出したスマホの液晶は8:57を表示していた。

 

席に着く。

 

辺りを見回す。

自然と彼女を探していた。

もちろん200人もいる会場で、よっぽど近くに座っていない限り見つけるなんてできないけれど。

 

 大きな溜め息をつきながら、不甲斐なさを呪い、がっかりし、その落ち込み具合は初日の朝を思い起こすほどだった。

ただ、そんな気持ちをよそにセミナーはどんどん進行してゆく。何やら昨日の宿題をみんなの前で発表するようだ。

続々と挙手しては発表する参加者を横目に、まだ頭のまわらない僕の意識はすっかり彼女へと飛んでいた。

 

恋だと本当は気付いていながら、そうじゃないと何故か否定している。好意がある状態と恋は別だと理性が否定しようとする。ただ思いだすのは、彼女の声だったり仕草だったり。

ただ隣に座りたい、話したい、笑顔がみたい、ただそれだけで、それは恋なのだろうか?などともう正解が出ているにもかかわらず、僕はそうではない理由をずっと探していた。

 

 

休憩

 

 

頭は支配されたまま、ただお腹は空いている。缶コーヒーでなんとか空腹を誤魔化しながら、無限に人が行き交う廊下を行ったり来たりする。やっぱりというか、無意識のうちに探してしまう。

 

スタッフから「あと5分」の声。僕はがっくりと肩を落とし、ゆらゆらと気持ちを引きずりながら会場へ向かうしかなかった。

 

「あっ!」

 

グレーのトレーナーと真っ白なスカートに身を包んだ後ろ姿に気づくまで1秒とかからなかった。

不自然な早足で彼女の後ろまで近づくと、昨日のお返しに肩を"ちょんちょん"した。

振り返った頬に人差し指があたる。驚いた顔はすぐに笑顔に変わり、今度は頬を膨らませて怒った顔を作ると、すぐにまた飛びっきりの笑顔を返してくれた。

 

「クルノオソイヨ」

「ギリギリダタネ ネボウシタヨ」

「ホラ ハヤクスワリナ」

 

ちょっと怒ったような「もおっ」て顔をしながら早口でまくし立てた。

ニヤニヤが止まらない。

「ごめんごめん」と彼女に困り顔を作って微笑みかける。

気づいてしまった。

僕が彼女を探していたように、彼女は僕を探してくれていたんだ。

彼女は「イィーーー」て怒った素振りを見せてまたクスクス笑う。

 

 

 

セミナーが始まった。

昨日の復習だ。

 

「ふたりでペアになって話し合ってくださーい」

 

スタッフから声がかかる。

ここで僕らは重大なミスに気づいてしまった。隣同士座ったけれどペアではなかったのだ。肝心なところでキューピットはやってくれる。ほんの少しだけの落胆。僕と彼女は横を向くと背中合わせになってしまった。

ただ、お互いの背中はわざとぴったりくっつけて。

体温を感じる。。。そんな不純な心が伝わったのか彼女が後ろ手で僕の太ももを叩く。それはまるで「やだあ」という声が聞こえてくるように。

 

僕は、相手のおじさんの懸命な考察を「うん」とか「そうですね」とか適当に受け答えしながら、背中越しの彼女を感じるため、いつになく神経を集中させていた。

彼女がペアになった相手の女性に一生懸命話している声。それは小学校の先生が生徒を怒るイライラの話だ。「ワカル?ワカル?」と、それはもう僕の口振りそのままで、おかしくておかしくて、後ろ手で彼女の太ももをちょんと叩いた。

「アッ   キコエタ?」

と、彼女はすぐさま振り返り、急に恥ずかしそうな顔で

「キカナイデヨ」

と、また僕の太ももをちょんと叩いた。

 

 

セミナーの中盤、横に座る彼女の足を小突き、小さい声で「お腹空いた」と言ってみた。朝からコーヒーだけで過ごしていたのもあるけれど。

しょうがないなあって顔。

椅子の下に置いてあったリュックからキャンディーを取り出すと、横目でチラッと合図する。声は出さない。そっと手を出すと、これはお国柄なのか彼女はわざわざ包み紙を剥がし、乳白色のキャンディーを取り出してポイっと手のひらに渡してくれた。「ありがと」と小さく口だけを動かす横顔を、クリッと横目で確認した彼女は目の動きだけで「どういたしまして」と応えくれる。心の中でアーンの口をしていたのは、感づかれてしまっただろうか。

 

 

お昼休憩

夕方からのセミナー

どちらもグループ行動がメインとなり僕らは離れ離れになった。運命のいたすらじゃないけれど、このがっかりする気持ちって。

 

 

そして二日目の最終セミナーが始まる。

一気に200人が会場へ戻るため、通勤時間の駅ホームかと思わせる混雑が毎回起こる。ざわざわとガチャガチャとパイプ椅子に着く大勢の受講者たち。

 

離れていた時間を取り戻すかのように、休憩時間ずっと一緒にいた彼女と、今度は大勢の人に紛れてもお互い見失わないようにと、ものすごい人込みを慎重に掻き分けて僕らは席を探した。

彼女は背後にぴったりとくっついて、両手の指先で腰の辺りのシャツをしっかりと摘みながらヨチヨチとついてくる。たまに急かしたりしながら。

 

 

セミナーは録音が禁止され、写真もだめ、それどころかメモすら許されない。スマホを見るなんて以ての外だ。

 

ただ、僕は今回こっそりと小さな紙きれとボールペンを用意していた。彼女と接近しているのが石川さんという女性スタッフにバレ始めているのを薄々勘付いていたからだ。

彼女の視線はとても冷たい。それゆえ得体の知れない予感がずっと背中に張り付いて拭えず、慎重にならざるを得なかった。

 

(続