恋煩い(こいわずらい)
貴重な週末だというのに、会社の命令で行かされた三日間のセミナー。そのセミナーを終え、自宅に向かう暖房の効いた湘南新宿ラインに揺られている。
サラリーマンである自分に会社の言いつけを断る気概など微塵もなかった。いや、そんな勇気は鼻からなかったのかもしれない。
ただ、もし、ほんの少しでも勇気があったのなら、今ごろ窓に弾ける水滴を眺め、憂うことなどなかったかもしれない。
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11月の初め。金、土、日と三日間、会社の命令により新宿のビジネスホテルに幽閉された。まあそれは大袈裟だとしても、そのくらいの勢いだったことに間違いはない。何故ならそのホテルから歩いて数分の場所にある「自己啓発セミナー」へ通うことになったからだ。
まさかこんなおじさんになってまで自己啓発セミナーに通うとはなあ。。。と、面倒くささと遣り切れなさとで、晴れやかな金曜日の朝とは裏腹に、気持ちは沈んだままだった。
それはもう寝覚めが悪いことにも増して食欲を減退させてゆくばかり。僕は焼いたトーストを半分だけちぎり、冷めたコーヒーで一気に胃へと流し込み、急いでホテルを飛び出した。
新宿の朝は肌寒かった。
ビルの谷間から見上げた空は青く晴れ渡っている。なんとなく恨めしそうにビルを見上げたまま「仕方ない」とだけ呟き、早々に気持ちを切り替えることにした。
グーグルマップを頼りに現地に着き、ビルのエレベーターにいそいそと乗り込み「10F」を押して下を向く。エレベーターは最新式なのか音もなく、僅かに心を締め付けたかと思うとすぐさま到着のチャイムを鳴らした。
会場は横長で広めなオープンスペース。そしてそこにうごめく人、人、人。このスペースに200名近くが無理やり押し込められるのかと、そんな大規模なセミナーだということをあからさまに実感して内心ざわざわと、そしてちょっと怖くなり始めていた。それはもう、知り合いも誰もいないセミナーに突然放り込まれたわけであって、正常な人間であれば少しくらい不安になってもおかしくないだろう。
ゆっくりと会場を見渡した。そこにテーブルはなく、パイプ椅子だけが整然と並べられている。
「ははーん」
これは、講師がホワイトボードに簡単な説明書きをしながらコーチングしていく今人気の"アクティブラーニング"だな…と、すぐさま気がついた。さすがアメリカで開発されたセミナーだなと、フンフンとひとりで納得するフリをした。それは不安な心を紛らわすための行為だと、なんとなく自覚しているけれど。
アクティブラーニングとは、隣同士、あるいはグループになって、ひとつの物事を話し合い深めてゆく参加型セミナーで、その中で参加者はひとりひとり自身に向き合ってひたすら心の中を探求するという仕組みである。
なるべく多くの人と会話して自身の考えを深めて欲しいという主催者側の意向だ。
「会場の席は特定の場所ではなく、毎回別々の場所に座ってセミナーを受けるようお願いします!」
とスタッフの方から説明を受けた。
「はいはい」
実はこの事を僕はセミナーに参加する前から知っていた。行けと命令を下した社長から
「席は自由だけど、隣同士で話し合ったりするからなるべく美人さんの隣を狙って座ったほうがいいぞ。目の保養になる」
と言われていたからだ。
そうこうするうちに、いよいよ期待と不安をない交ぜにしたセミナーが始まった。
隣には何やらどこかのビジネスマンが座っている。
「このおっさんとペアか。。。」
席の確保を失敗してしまった。両隣がおじさんだ。どうあがいても、おっさんから逃れられない。いや、もちろん自分もおじさんなので文句は言えないし、逆に「おじさんだ」と思われているに違いない。
あっさりと諦めて、真面目にセミナーを受講することにした。そう、心の持ち様なのだ。セミナーの内容も同じく心の持ち様について説明している。
ただどちらにしても退屈極まりない。会社から研修費用が支給されていることもあって、それ相応のやる気しか出ないのは致し方ないことだろう。
一日でセミナーは4回、1回3時間のセミナーだ。実に長い。挟まれる休憩時間は1回30分。9時から始まって、お昼休憩は午後3時半過ぎからだ。その休憩もグループ行動で、グループリーダーと呼ばれるスタッフがついて回る徹底した管理体制だ。常に監視されているようでめちゃくちゃ息が詰まる。
「ほとんど洗脳だな」
などと内心諦めつつ、このセミナー自体を不審に思い始めていた。
2回目のセミナーが終わり、スタッフ監視体制のもと昼休憩で息の詰まる食事を終えた僕は、ゆっくり会場に戻ろうとしてハッとした。
パイプ椅子に座るひとりの可愛らしい女性
脳裏に社長からの言葉がよぎる。
「なるべく美人の隣がいいぞ」
そうだ!
迷わずその女性の側まで早足で近づくと、見事隣に座ることに成功した。
彼女は20代と思われ、AKBのナントカさんに似た茶髪ロングの美人さんだった。あんまりじろじろ見ていたら不審者なので、それでもチラチラと彼女の横顔を眺めながら
「良い席とれたぞ」
と内心ホクホクしていた。
「それでは始めまーす!」
初日3回目のセミナーが始まった。
スタッフから
「隣の人とペアになって。今のことについて話し合ってください」
と声がかかる。
待ってました!と心の中でガッツポーズ。でも、そんなことを悟られないよう用心深くゆっくりと横を向き、彼女とご対面した。きれいな茶髪ロング、クリっと色素の薄い瞳と白い肌、華奢な肩、小さな胸のふくらみ。
「ハジメマシテ、コウ(高)トイイマス ヨロシクネ」
なんと彼女は中国から日本に来た留学生だったのだ。
その独特な中国人訛りというかイントネーションに一瞬でやられてしまった。完全に変態級の笑顔になっていただろう。僕は
「よろしくお願いします」
と、ぎこちなく言った。
ところが彼女はそんな僕に対して信じられないくらいの笑顔で応えてくれたのだ。まるで天使である。ただ、それも束の間、急に彼女の顔が曇ってしまった。彼女にはこのセミナーが難しく、内容がよく理解できてないらしいのだ。
「ヨクワカラナイ」
と彼女はちょっとだけ顔を寄せて話してくれた。これに応えられる男は世界中探しても、いまは僕しかいない。
200人もいる会場で、ざわざわと話し声が飛び交ううるさい会場内で、僕と彼女はちょっとだけ肩を寄せ合った。
僕はいま得ている全ての知識をフル回転させて、彼女にわかりやすいよう例え話も織り交ぜながら丁寧に説明した。不安そうな顔をする彼女を落ち着かせながら「わかる?わかる?」と何度も、何度も。言葉を重ねるうちだんだんと、不安そうな彼女の顔に笑顔が浮かんでくる。そして、
「ワカタヨ」
「コーチヨリセツメイウマイネ」
「タカハシサンノトナリナッテ、ホントヨカタヨ」
とグーを出してきた。
すかさずグーを出す。
彼女のグーと僕のグーが少しだけ触れ合って、その瞬間、彼女は悪戯っぽい上目遣いでみつめながら、最高の笑顔をみせてくれた。
お互いが、この広い会場に放り込まれ、200人もの見知らぬ人に囲まれて誰も知り合いのいない不安を抱えていたのだ。彼女の言葉のハンディを考えれば尚更のはずだ。これを''つり橋効果''っていうんだろうなとも思う。けれど、もうお互い大人であっても、それを感覚で悟っていても止められなかった。僕らはあの瞬間確実に求めあっていたのだから。
一気に親密になったのか、彼女はセミナー中でも小声で質問してくるように。スタッフに気づかれないよう左手の小指で僕の右足をちょんちょんして、そして頬をちょっとよせて。
まるで中学生の初恋だ。スタッフに怪しまれてはいけないという潜在的意識が、否が応でも僕らに火を点ける。けれどもコソコソと仲よくなってゆく僕らに、無情にもセミナーは終わりを告げるのだった。それはもうあっという間の3時間。
僕らはお互いに、
「バイバイ」
と告げて会場の外へ出た。長い栗色の髪を揺らしながら、あっという間に彼女は200人の中へ埋もれていってしまった。
休憩。
休憩時間中、会場から一旦外に出なくてはならない。そうして休憩後、再び会場に入りめいめい席を探して座るのだ。
ぼんやりと彼女との余韻に浸りながら、セミナーの内容を反芻することも忘れなかった。たったひとときでも楽しい時間があってよかった。。。などと自分を慰めていたけれど。
スタッフから「あと5分です」の声。僅かばかりの休憩が終わり会場に戻って、そのまま何も考えず適当に席に着いてしまった。
おじさんを嫌ってか、なかなか隣に人が座らない。「そりゃそうだ」と内心微妙な心持ち。
そんな僕の肩に突然"ちょんちょん"がきたのだ。
「マタキチャタヨ」
と、悪戯が見つかったような上目遣いでみつめる彼女。あたかも"偶然です"みたいな顔をして僕の横にしれっと座ったところで初日最後のセミナーが始まった。
パイプ椅子はきっちり並んでいて、でも僕らのパイプ椅子はとりわけくっついて並んでいて、彼女の肩と僕の肩は少しだけ触れ合っていた。それはお互いの意思を確認するように。
そう、彼女は200人も人がごちゃごちゃしている中で、僕のことをきっと懸命に探してくれていたのだ。
(続