さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

特別な朝(前編)

その昔バンドブームなるものがあった。これはその1983年当時のお話。

僕が高校生だったおよそ30年前は、エレキギターを弾くなんざ不良のやることで(笑)周りの大人たちから白い目で見られ、特に親からは「あんたそんな蓮っ葉なこと止めなさい」*1などと言われたり。

それでも当時世の中はヘヴィーメタル全盛期で、ヴァンヘイレンに憧れ、またある人はマイケルシェンカーに憧れ、そんなバンドブームの渦中にあった僕と友人は迷わず軽音楽部の門を叩いていた。何故なら軽音楽部だけがエレキギターを弾いてもよい部活だったのだ。

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とはいえエレキギターを使っていいのは夏休みだけ(文化祭の練習という名目)で、それまではフォークギターを真面目に弾くという"仮の姿"でおとなしく身を隠していなければならなかった。何故そんな厳しい掟があったかと云えば、その前身であるフォークソング同好会を遡ること数年、先輩方が「僕たちは清く正しい高校生です」と散々繰り返しアピールしてようやく軽音楽部に昇格できたという重い歴史があるからである。部としての活動はまだ二年しか経っておらず、肩身の狭い状況下で先生からの「お前ら何か問題起こすなよ!」的な冷たい視線を浴びながら、僕ら部員たちは日々ご機嫌を伺っていた。

ということで、僕と友人はヤマハとモーリスの安いフォークギターを買って、仕方なくフォークギターの練習に勤しんだ。「みんなで歌おう歌謡曲」みたいなコード譜が載ってる本で長渕剛とか、松山千春とか練習したわけだ。

 

 

 

大体目の敵にしているのは、日体大出身の体育教師で「細田先生」と「折茂先生」であった。

生活指導も兼ねているとあって、細田先生はホームルームの時間も竹刀を手放さず、その竹刀で床を「バシッバシッ」と叩き鳴らしながら生徒を威圧していた。今なら大問題だろうが当時はそれがまかり通る世の中だった。

折茂先生は教師になってまだ2~3年目の若い先生で、初めてサッカー部の顧問という大任を背負い張り切り過ぎて無駄に厳しかった。先生の下着が女性もののパンティー(ぴったりフィットして動きやすいという実用面からだと)だということをサッカー部の友人からこっそり打ち明けられ、僕らはコソコソと陰でおちょくっていたけれど、なかなか面と向かっては言いにくい(当たり前だが)事案であり、別の面でビクビクしていた。馬鹿丸出しの高校生である。

 

夏が来て、僕ら部員たちはエレキギターを手に取りゾンビの如く生きかえった。ビートルズを演るもの、ACDCやオジーオズボーンを演るもの、山下達郎ユーミン浜田省吾佐野元春白井貴子松原みき、など多種多様な音楽に僕らは身を委ね、次々と消費していった。カシオペアやスクエアなど高校生らしからぬテクニックに溺れたのもこの頃だ。まだまだ先輩が作るバンドのお手伝いをしなければならなくて、なかなか自分の思ったことはできないのだけれど、それでも音が漏れぬよう締め切った教室で部員たちはみんな不健康な汗を流し続けた。音が校庭に零れれば、件の体育教師がすっ飛んできて抗議されてしまうからだ。

 

それでも、

それでも僕らの汗だくの青春は揺るぎなく、間違いなくここに存在していた。

僕らはめくるめく夏休みの真っ只中を、とにかく無我夢中で突っ走っていったのだ。

 

 

時は流れ、僕は三年生になった。

先輩のご意向を伺うことなく自由にできる日がついにやってきたのだ。

僕と友人の5人は文化祭で「サザンオールスターズ」を演奏することにした。友人たちから是非やってくれとのリクエストがあり、それにお応えしようと決めたのだ。バンド名は「喜楽」*2とした。

当時は「ふぞろいの林檎たち」というドラマでサザンの曲が次々ヒットして、当然ながらセットリスト*3は新曲の「ミス・ブランニュー・ディ」を始めに「ボディスペシャルⅡ」「虹色THEナイトクラブ」などドラマから選曲、ファンなら垂涎モノのナンバーを多めにした。もちろんいとしのエリー」「勝手にシンドバット」は欠かせない。

僕らのグループは自分で言うのもなんだけど、その当時超高校生級のテクニックを持っていたと思われ、なんなら今プロとして音楽活動を続けているメンバーもいたりするくらい。当時の音源をお聴かせできないのが誠に残念なのである(言うのはただである)

 

もちろん文化祭は大成功に終わった。

 

有終の美を飾った僕らは三年生なのでそのまま部活を引退し、惜しまれつつバンドは解散したのだった。

 

そして僕らは受験に飲み込まれる。

ギタリストの寒河江くん(現在YU SAMMY / 舞台の音楽監督などで活躍中)とキーボードの女の子は大学へ、僕は調理師学校へ、ドラムの田中くんは理容学校へ進学が決まっていた。ボーカルだった川島くん(僕らはケンちゃんと呼んでいた)だけが医療系の専門学校を受験するということで試験日(2月中旬)まで勉学を励むことに。

 

 

年が明けると僕らはほとんど学校に行くことがなく、車の免許を取得するため自動車学校で時間をつぶしていた。

学校の行事も卒業式と予餞会。。。いわゆる「三年生を送る会」という催しものを残すだけ。

その予餞会で「夏にやったバンドをもう一度観たい!」という声が、同級生から多数湧いてきたから驚きだ。進学が決まった同級生はホントいい気なものである。

まあ僕らも何だかんだ言いながら嬉しさは隠せない。。。夏にキーボードを弾いていたくれた子は歌がからきしダメだったので、新たに2年生の歌の上手い後輩を引き入れ、バンド名を「喜楽スペシャル」として僕らは復活することになった。受験が終わらぬケンちゃんをなだめすかしてやっとの再結成である。ケンちゃんも「当日までには必ず合格するからさ!」と言ってくれたのだ。言わせたという説もある。

 

''三年生が三年生を送るバンド演奏''に若干の無理があるものの、僕らは最高のセットリストで挑むことにした。与えられた時間はわずか20分。これは他の出し物があるため絶対に守らなければいけない時間配分である。

僕らが予定した曲目を順に並べると

気分次第で責めないで→C超言葉にご用心→栞のテーマいなせなロコモーションいとしのエリー→YaYa(あの時を忘れない)→勝手にシンドバット(全員ソロあり

という40分くらいのセットリストだ。無理は承知である。

もちろん管理委員には上記のうち4曲ほどしか伝えていない。ベースを担当する僕と、ギターを担当する寒河江くんはシールド*4を使わず無線で音を飛ばす装置(ワイヤレス)を準備した。万が一の緊急事態も視野に入れていたのだ。そう、強行突破しかない。

そうして僕らは練習を積み重ねた。同級生を喜ばせたい一心で。

 

 

 

予餞会1週間前に事態は急変する。

 

 

ケンちゃんが次々と受験に失敗したのだ。ケンちゃんに残された専門学校の試験日は、予餞会当日ただ1日だけになってしまった。

僕らは悩んだ挙句、あろうことかケンちゃんを説得し始めた。人の一生が、ケンちゃんの人生が掛かっているのを承知でケンちゃんに受験を諦めろと。。。

こたつに入り、ケンちゃんを囲み、今までの僕らの歴史を滔々と語り「二度とないこの瞬間を僕らは台無しにしていいのか!」とケンちゃんを追い詰めた。今思えば無責任極まりない行為である。

 

最終的にケンちゃんは「俺、やるよ」と声を絞り出し、みんなで泣いた。本当人間として最低であった。(ちなみにケンちゃんは親に内緒で学校に登校して歌い、親には試験に落ちたと嘘をつき、同じ専門学校の2次募集で無事合格したのだった)

 

そして当日の朝を迎えるのである。(続)

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*1:蓮っ葉・・軽薄な、あるいは軽率なという意味

*2:ドラムの田中くんの実家のラーメン屋から拝借

*3:その日の演奏曲目

*4:楽器本体とアンプ(スピーカー)を繋ぐコード

二学期を迎える君へ

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高校野球が終わり、鳥人間コンテストが終わり、24時間TVが終わり、いよいよ二学期が目前に迫ってきた。

 

この時期「いじめ」がある学校へは戻りたくない!行きたくない!って子どもたちがいるという。中には思い詰めてしまい、命を絶ってしまう子も。

哀しい現実である。

 

 

僕自身「いじめ」のような体験がない。

 

もしかしたら鈍感すぎて気がついていなかったのかもしれないけれど、無視をされるとか危害を加えられるとか、そういった経験がなかったので、きっといじめられていたなんてことはなかったのだろう。

ただ極度の人見知りで、かなりの時間をかけないと心を開くことができない寡黙な少年であったことに間違いはない。最近の僕を知る人には信じられないかもしれないけれど、いまでも初対面の人にはかなりの無理をして話をしている。接客業という職業柄"仕事"と割り切って別人としての自分がそこにいたりするのだ。

 

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その昔、二学期に「学校へ行きたくないなあ。。。」って気持ちが少しだけあった。小学生から中学生くらいまでかな。中学1年生のとき、僕はバスケ部だった。けれど、来る日も来る日も先輩に怒られてばかりで、2年生になる頃とうとう僕は我慢できずにバスケ部を辞めてしまった。その後は部活もなく、ただ家に帰ってTVを見る。そんな流れでの2年生。夏休みは林間学校もあったけど、ひとりでいることが多くて、この2年生の夏休み後の学校は、本当に行きたくないピークだった。単純にクラスメイトとの距離感が分からなくなっていたのと、それを補おうとする自分の面倒くささが同時に襲ってきたのだ。

 

ただ僕は、引きつった作り笑顔と持ち前の楽天的性格が功を奏して、なんとかやり過ごすことに成功した。なにより学校へ行かないことで親に怒られるのがものすごく怖かったことと、だったら別にひとりでもいいやって単純に割り切れたことが幸いしたのだ。まあそのぐらい、我慢できると。

 

僕は本を読んだりTVを見たりして、その中に自分の居場所を発見した。

 

 

想像の世界は僕だけの世界だったのだ。

 

 

ラジオを聴きだしたのもこの頃だ。せいしゅ~んお~おおど~お~り~♪を聴き「天才秀才バカ」を聴き、聖子ちゃんやヨッちゃん、「マッチとデート」なんてのも聴いた。もちろん「青春キャンパス」は外せない。あぁ「スネークマンショー」も。そして、さだまさしさんの「セイヤング」における「三国志」の歴史漫談が毎週楽しみで仕方なかった。土鈴をチリンチリンと鳴らし「〇〇さんいらっしゃい」というくだりも楽しかった。

極めつけは笑福亭鶴光さんの「オールナイトニッポン」 多感な少年たちはこの番組を聴くのが楽しみで仕方なかったのだが、なにせ深夜1時からで、一生懸命眠い目をこすり、テーマ曲が流れ、「提供は、ブルボン、BVD富士紡。。。」とかこの辺で力尽き、はっと気がつくと演歌が流れていたこともしばしば。

 

 

 

 

僕は、学校がしんどくて、いじめが怖くて、友だちなんていなくって、そんな悩みに圧し潰されそうな君に「ラジオを聴いてごらん」と言ってあげたい。

なんたる人任せな対処法かもしれないけれど、ラジオは"ひとり"を快く迎え入れてくれるのだ。聴くだけでいい。もちろんラジオの各コーナーに投稿するのもいいけれど、まずは聴くだけでいい。TVよりもラジオかな。本を読むのもいけれど、人の声は殺伐とした君の心を温めてくれるはずだ。

何よりパーソナリティーは君に話しかけてくれる。君だけの空間だ。それは脳内だけかもしれないけれど、誰にも危害を加えられないし、なんなら世の中のためになる情報だって、いっぱいラジオに詰まっている。

もし本当に酷いいじめにあっていて、毎日がツラくてツラくて、もう生きているのも嫌になるくらいだったら、ラジオを聴いてみよう。無理して学校になんか行かなくたっていいのだから。

毎日毎日雨が降り続ける中へ、雨合羽を着込んで傘を差して、それでもびしょ濡れになって、一生懸命防御する君は確かに間違ってはいないけれど、そんな毎日ってやっぱり普通じゃないよ。

そして、僕は君に教えてあげたい、

 

 

 

雨の降らない世界だってあるんだ。

 

 

 

雨合羽なんていらない。傘なんていらない。

雨なんて降らないのだから。 そしてそんな世界は君のすぐそばにあったりする。

 

 

本当に思い悩んでいる子は友だちに話すことはない。だって恥ずかしいから。

本当にツラい毎日を過ごしている子は親に打ち明けたりなんかしない。だってそんな子だって思われたくないから。

ましてや先生なんかに相談するわけがない。

 

 

 

そんな恥ずかしいことするくらいなら死んだほうがマシだから。

 

 

 

友だちや親や、なんとか先生にツラい状態を打ち明けられた子は助かるけれど、我慢強く、意思が強靭な子ほどピンと張った糸がいまにも切れそうだったりする。それが君だ。

そんな君はひとりで解決するしかなくって、だから僕は君に「ラジオを聴いてごらんよ」と言いたかった。

未来がどうとか、そんな先のことはわかりっこない。だけどいまは、やり過ごそうよ。さあ、ラジオでも聴いて。

 

 

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僕らの働く理由

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僕は高校生のころバンドなんてものに明け暮れていて、進学やら就職やらとか、そんなことは全然考えずに来る日も来る日も楽器と戯れる毎日を過ごしていた。漠然と、大学に行ってもやることないなあ。。。何かモノを作る仕事とかしたいなあ。。。適当にバンドとかやっていたいなあ。。。などと、今思えば本当だらしない学生生活だったのだ。

体たらくな僕は、勉強しないで入れる調理師学校(ミーハー気分もあって有名な服部校長のいる代々木の有名校)に進学し(この話はまた別の機会に)卒業すると同時にフランス料理屋で働くことになった。今じゃ考えられないけど就職するのに苦労することなんか全然ない時代だったんですよね。

そのお店は僕が入る数カ月前にOPENしたばかりで、ムッシュと呼ばれる竹内さん(当時若干33歳・旧大宮市役所前の南欧料理店で今も腕を振るっている)を慕って集まった腕利きの料理人が揃うバリバリのフレンチだった。僕が入ると時を同じくして、八丈島から親戚を頼りに上京した高卒の青年と、ホテルを1~2年で辞めてきた流れ者の菊地さんと清水さん。あと住み込みという条件だけで青森から紙袋ひとつで上京してきた高卒の青年が合流して、いよいよ5人が使いっぱしりとして働くことになったのだった。

 

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働くといっても八丈島と青森の18才コンビ、僕が19才、菊地さん20才と清水さん21才の5人だ。最初の数ヶ月は遊び半分仕事半分のような、学生ノリのまま勢いで毎日を面白おかしく暮らすことしか考えていなかった。僕らは浅はかで、陽気で、馬鹿丸出しだったのだ。

お店は「寮」と称して平屋建ての家を一軒借りていた。6畳二間の2DK。そこに僕といっこ年上の菊地さんを除いた八丈島、青森、清水さんの三人が暮らすことになった。

店は9時に出勤した僕ら小僧たちが仕込みを行い、10時過ぎに河岸(市場)から腕利きの先輩が肉や魚を仕入れて現れる。その後にムッシュが来て買ってきた材料を見てメニューを考え、11時半よりランチが始まるというルーチン。15時から17時までは休憩。そして夜は23時まで営業する毎日だった。

23時過ぎに僕らは仕事を終え、南銀(南銀座と呼ばれる飲み屋繁華街)に繰り出し、浴びるように飲んで酔っ払い、カラオケを歌いまくり、そして寮になだれ込んだ。週に3~4日はそんな日を繰り返していた。全くもって学生ノリそのままなのである。

 

 

ある日小僧の八丈島が「寝ない選手権やろうぜ!」と言い出した。

 

 

若かった僕らは気合を入れてこの一大イベントに取り組むことになった。

まず早朝ゴルフの打ちっぱなしを6時から7時に。力あり余る僕らは手に豆を作りながら200発くらいゴルフボールをぶちかますと、今度は裏のテニスコートで時間ギリギリまで早朝テニスを楽しんだ。アルバイトの可愛い女の子を早朝から呼び出し、そのパンチラを拝むことも決して忘れずに。そして9時から仕事。中略 23時過ぎに仕事を終えた僕らは街に飛び出し大酒を飲み、そこでナンパした女の子とカラオケで大騒ぎして歌いまくり、ヘロヘロになった身体を引きずり一旦寮に戻り、そしてゴルフの打ちっぱなしの準備をするのだ。もうM体質極まりないことこの上ない。そしてギンギンに充血した目のままゴルフボールを打ちまくり、ふらふらになりながらテニスをして、この日はバイトの子が来ないからと隣のコートをみたら、老夫婦の壮絶ラリーに仰天したりして、そうして僕らは朧げな意識のなか仕込みを始めるのだった。デジャブである。すでにこの時点で27時間。カッチコッチ…

肉体を酷使して、仕事ではコキ使われ、そしてガラガラ声と二日酔いの僕らは無駄に睡魔と闘っていた。それはもう学生の徹夜とは大違いだった。包丁を持つ右手と野菜を持つ左手、おでこを手前の壁にくっつけた三点倒立で寝ていた八丈島が最初に脱落した。次に青森が閉店後の床で棒になっていたのを発見。仕方なく残った三人で街に繰り出したものの、最初の店でビール片手にみんな撃沈してしまった。およそ42時間くらいだったか。その寝顔が天使のようだったかどうだかは知る由もない。

 

 

アートな写真を撮る会も開催された。

 

 

閉店後、僕らは仕入れで市場に行く用の社用車に乗り込み、埼玉の田舎町から晴海ふ頭までドライブした。片手に「写ルンです」を持って。

夜中じゅう僕らはモノクロで写真を撮りまくった。

突っ走る車の中から東京の街を切り取り、大声で尾崎を歌い、運転する八丈島をよそに、僕らは缶ビールをかっ喰らった。

肩車の肩車とかして「トーテムポール」とか写真に収め、無駄にジャンプしたり回転レシーブをキメた写真も撮ってみた。もちろん海をバックにマドロス風の写真も欠かせない。

帰り道、大通りで「ドリフトしたい!」という八丈島が猛スピードから急ブレーキをかけて車が1回転したときは、僕らは静かに顔を見合わせた。正直漏らしていたのだ。

「小便!小便!」

一番年上の清水さんはそう言って車から降りて走りだした。僕らは前屈みになってその後を大急ぎで追っていった。

そうして僕らは並んで立ち小便をして、明るくなり始めた朝にゆっくりと飲み込まれていったのだった。

清水さんは、

「俺、料理作りながらアメリカ大陸横断したいな」

と、ぼそっと呟いた。

夜と朝の境界線に立っていた僕らは、何者になるために今を生きているのかを、その時少しずつ考え始めていたのかもしれない。働くということが、それはまだ何だかわからなかったけれども。

 

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さよならは約束だろうか

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【強制送還】国外退去処分が下されると五年間は入国許可が下りない。

不法入国、密入国して詐欺行為を働いたり、薬物を持ち込んだり、悪いことする外国人を排除することもあって、必要な法であることに間違いはない。

 

 

 

 

 

 

レストランで店長をしていたころ、僕はひとりの中国籍男性をアルバイト採用した。なんでも語学留学で日本に来ていて、アルバイトで学費を少しでも賄いたいという。

僕自身こういう人情的な事情に弱く早速採用を決めたのだけど、日本語は上手に話せるし、中国人にありがちなグイグイくる感じもない物腰の柔らかい好青年だったので、普通に採用基準は満たしてたわけで。。。

彼の名前は「辛」さんといい、アルバイトのみんなは「シンさん」と呼んですぐに打ち解け合った。はにかんで、ちょっと照れたような表情が彼の持ち味であり、優しい人柄も感じさせてくれた。

シンさんは早速キッチンで働くことになった。

 

 

 

当時慶応大学に通う才女がアルバイトにいた。

ユウコという。

小柄な彼女は決して美人の部類に入る容姿ではなく、言うならばブスメイクをした眼鏡の仲間由紀恵さんのようだった。ただ彼女の名誉のために記しておけば、角度の付いた尖ったフレームの眼鏡を外すと、目が悪い人特有の潤んだ瞳がキレイだったことを僕だけは知っている。

彼女は頭の回転が速く、行動力もあり、キッチンで働く年上の男子大学生にだってズバズバ物言うことができた。嫌がられながらも規律を重んじる重鎮として40名ほどいるアルバイトの中でも彼女は特に異彩を放っていた。知っている人ならわかると思うけど、彼女はサンマルクというベーカリーレストランでディシャップ(キッチンにオーダー伝票の指示を出す係)ができ、100人がバラバラに食すコース料理のタイミングを自在に操れる力量を会得していたのだ。男勝りとはこの事を言うのだな。。。なんて思っていた。

 

 

 

そんな彼女が恋をした。

 

 

 

慶応大学に通い、第二外国語で中国語を専攻していた彼女は優秀で、簡単な中国語の会話はもとより、書くこともできたのだから好意を抱くのは当然だったのかもしれない。

だいたいシンさんが日本語で困ると彼女がサポートするパターン。僕がシンさんに「野菜の在庫を調べといて!」と頼むと、シンさんが手にした紙切れのメモにはキユリ2本・ナース5本などと書かれていて、それを見た彼女は「シンさんそれじゃ看護婦さんだよ!」なんて言って大笑いしたものだ。そんなとき(けっこう頻繁に言葉のズレ事件は起こった)シンさんは、いつもはにかんだ笑顔で照れていて、その優しい笑顔に彼女でなくても好意を寄せていた女の子はいたかもしれないなあと今頃気づいてみたり。

 

行動力があり物怖じしない彼女も、それがいざ自分の恋心だと知るとなかなか切り出せないもので、見ているこっちは歯痒いばかり。明らか彼女はシンさんに"好き好きビーム"を発射しちゃってるんだけど、シンさんは照れ笑いばかり。それでもシンさんは彼女のことをいつの間にか「ユウちゃん」と呼ぶようになっていた。

僕はコトあるごとに「もうキスしたのか?」とか彼女に愚問を投げつけて怒られていたけれど、彼女とシンさんは恋人同士というのには遠く及ばないプラトニック中のプラトニックな関係で大満足のようだった。

 

 

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三ヶ月くらい経った頃。。。

彼女からいよいよ「デートに行く!」と報告を受けた。なんでもディズニーランドを計画しているという。

結果、行ったのは池袋の水族館だったようだけど、それはそれは何度も繰り返し楽しかった話を彼女から聞かされた。「ヤレたかも委員会」にかけたら絶対ヤレたはずなのに(笑)

 

彼女はキスぐらいしたのだろうか。シンさんは彼女の潤んだ瞳を見ることができたのだろうか。

 

シンさんに水族館のことを聞くと「楽しかったです」とはにかんだ笑顔でかわされて、そのとき今までは「照れているのかな?」って思っていたシンさんの笑顔が、なんだかちょっとだけ憂いを含んだ笑顔に見えたのは、気のせいにしておきたかった。

 

 

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ある日、昼のアルバイトの時間にシンさんが来なかった。

こんなことは過去に一度もなかったし、遅刻したこともなかった。

原因はわからないし土曜日で忙しかったので放置したままになったけど、とうとう夜になっても連絡がつかないまま。携帯電話(当時はガラケー)も持っているはずなのだけど、電源が切られているのかとうとう繋がらなかった。

 

翌日、バイトに入っていない彼女がわざわざ店に来て事の顛末を話してくれた。

シンさんは強制捜査にあって不法滞在が発覚して現行犯逮捕。入国管理局に送還されたのだ。

シンさんは同じ中国人の友人とアパートを借りて暮らしていたのだけれど、どうもその一緒に暮らしていた中国人の素行があまり良くなく、近隣住民に反感を買っていたらしいのだ。そして、その近隣住民の通報により当局の捜査に引っかかり、アパートの周囲を固められたシンさんはパスポートの提示を求められ、ビザの切れた状態で滞在していたことが判明してしまったのだ。

そういえばお店でアルバイト採用するとき、ビザの提示は求めなかった。これは本当迂闊だった。

彼女は近隣住民にひとりで聞き込みをして事の顛末を知り、わざわざ港区にある入国管理局まで行ったそうなのだが、面談はまだできなかったそう。見た限り彼女は寝ていなかった。

入国管理局からいつ中国へ強制送還されるかは誰にもわからない。必要な手続きなどが終わればそのまま出国するのだけど、強制送還される本人から連絡はできないし(携帯などすべて一時預かりされている)まずもってそこは留置場なのだ。

 

彼女は学校の授業を極力休んでシンさんに会いに行った。会いに行っても彼女とシンさんの間には透明な強化プラスチックがあるのだけれど。

 

差し入れはかなり自由が利き、コーラが大好きなシンさんのため行くたびにペットボトルを差し入れをしていた。そうして、短い接見時間を最大限利用してたくさん話をした。いつ終わりが来るともわからないのに。

 

涙をみせることは絶対だめだと、彼女は悲しい気持ちを抑えて終始明るく過ごすことに努めた。

 

毎日のようにシンさんに会って何を話したかを報告する彼女を、どうして不憫に思うことができるだろう。見る限り彼女は楽しそうで、僕も話を聞きながら大笑いしたり。

 

 

 

でもそれも長くは続かなかった。

 

 

 

その日、

とうとう彼女は泣きだしてしまった。

 

僕に携帯電話を差しだしてくる。

そこにはシンさんからの留守番電話が入っていて、空港からの電話だった。

彼女はその日どうしても抜けられない授業があり、授業の休み時間にその留守番電話に気づいたという。

そっと耳に近づけて再生してみる。。。

 

ユウちゃん

ユウちゃん

大好きなユウちゃん

もう会えなくなるけど

ユウちゃん

ユウちゃん

ありがとう

もうれんらく、できないけど

また日本に行くよ

ユウちゃん

さよなら

ユウちゃん

ユウ  ------

 

 

 

消え入りそうな声で、シンさんの告白が入っていた。途切れ途切れに声が入っていて、途中で時間がきて切れてしまっている。

シンさんは一度本国に帰り、ちゃんとビザを発行してもらって正規な状態で入国しようと決心した矢先の出来事だったと彼女が教えてくれた。そういうものである。

 

 

 

その後日常を取り戻し、ゆるやかに日々は過ぎ、時がきて、彼女は大学を卒業。アルバイトを辞めていった。

 

 

その後何年かしてこのお店は閉めてしまうことになるんだけど、あと10日ほどで閉店するというその間際、彼女はお店に寄ってくれた。久しぶりに会った彼女は、あの携帯電話を見せてくれた。もう使うことはないけれど、携帯は解約しないのだという。留守番電話サービスは解約するとその情報が失われてしまうのだ。

 

彼女が携帯電話を解約するとき、あたらしい恋が始まるのかもしれないな、と僕は思っている。ただ、30歳をとうに越えた彼女はまだ結婚をしていない。

ペスがいた日 短歌連作

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ペスがいた日 / たかはし みさお

 

ダンボール親元離れ悲しみの汚れた君はうちの子になる

日は暮れて夜もベソベソする君を「ペス」とこれから呼ぶことにする

いままでは起きることない時間でもただひたすらに早起きをする

ねえ行くの?行くの?行くの!とクルクルと右に左にペスは跳びはね

「ほら出来た」逆上がりする僕のそば見つめるペスはだらしない舌

ややズレて縫い付けられたアップリケ 家族だけしか犬とわからぬ

 

 

学校はつまらなくてもペスがいるペスがいるからペスがいるなら

押し込んだ ペスはバナナが大嫌い上目遣いで申しわけなく

雪が降る ジャンプしながら口を開けクルクル回る寒くないのか?

稲刈りの後の田んぼを猛然と走る走る 突っ走るペス

ペスはただ ただひたすらにかしこまり晩ごはん待つ ただひたすらに

鳴り響く夕暮れの空高らかに遠吠えハモる防災無線

高校に通う毎日たのしくて 夜の散歩はおざなりになる

 

 

 

ペスはもう歳を重ねたおじいちゃん テニスボールを横目で見てる

雪が降る 犬小屋のなか伏せたまま じっとしている歳をとったな

 

 

 

医者は言う「強い薬になります」と ペスはどうして黙っていたの  

別れとは知らぬ間にカウントが始まっていて ただゼロになる

なんでだよもう少しだけ生きていて ただそう思う ただそう願う

横たわるペスは申しわけなさそうな 上目遣いでお決まりの顔

ゆっくりと瞳を閉じる まだだよと心は叫び声にならない

 

 

 

ペスはもう準備をしてた 目を瞑り虹を渡って空の子になる

もう息をしていなくても横たわるペスのそばから離れられない

泣きながら見上げた空は幾千の星が瞬くきみの見る空

餌皿と首輪を庭に埋めましたごめんね ごめんね ごめんね ごめんね 

 

 

 

がらんどう今日からひとりわかってる しなくてもいい寄り道をした

空の子は忘れたことにしていても時折滲む雨の五月に

添い遂げて別れてもなお日だまりに想いを馳せる愛というもの

 

 

ぼくの描く物語にはペスがいて千切れるほどに今も尾をふる

 

 

 

ペスは小学生のころから飼っていた雑種犬で、僕の友だちでした。ペスが亡くなってからは二度と動物など飼うまいと思っていましたが、最近は「にこつ」という猫を飼い始めて五年になります。最近はTwitterにUPしたりしてますよね。

 

小さいころはペスがいること自体"ふつう"になってしまい、雨が降ったり寒かったりすると散歩を休んだり、学校が面白くなってペスと遊ばなくなったり。

でも、終わりってほんとうに突然やってくるのです。思い知りました。初めて家に貰われてきたときからずっと別れのカウントダウンは進行していたんですよね。

いつゼロになるかなんて誰にもわからない。

このときを境に、僕はずっとこう考えているのです。

 

連作28首。「ペスがいた日」でした。(#うたの日から抜粋+加筆修正あり)

 

店が潰れるということの悲しみ

もういいかな。

僕は以前サンマルクというお店を運営していたのですが、潰してしまいました。ピーク時で月商1300万くらいありましたが、閉店するころには平均月商800万~900万ほどになっていました。普通のレストランなら十分すぎる売上額なのですが、このサンマルクというお店は経費がすごく掛かり、これで赤字ラインなんですよね。

在籍期間は11年、なかなかな思い入れもあります。

いままで大手ファミレスチェーンにいたこともあるのですが、だいたい1年から1年半くらいで店舗を移動していくのです。なのでお店本体や人にはあまり深く関わらなかったのですが、ここは11年間在籍したこともあって、長く勤めてくれたアルバイトさんだと15歳(高校生になった4月から)から大学卒業まで7年間付き合いがあったりしました。

 

この店はフランチャイズサンマルク本社とは別にオーナー様がいて、その下で僕は働いていました。オーナー(社長)部長(奥様)店長(僕)の3人というお店のためだけの会社で、オーナーの思い入れも大変強いお店でした。

 

オーナーの本業は砂利問屋で(建設現場へ土台になる砂利や砂を手配する問屋さん)元々このサンマルクがあった土地は砂利や砂の置き場でした。オーナーは2代目社長なのですが、小さいころはこの土地から砂利や砂が風で飛んで近所へ散々迷惑をかけ、肩身の狭い思いをしたそうです。特に雨が降ると砂利置き場の砂が人の家に庭に流れ込み、その度に謝りに行く親の姿を見ていたのです。

そんなオーナーは自分が代替わりしたとき、真っ先に別の土地を購入して砂利置き場を変えたのです。そして残ったこの土地を近所の方に是非利用してもらいたいと思い、サンマルクというレストランを誘致したそうです。いままで迷惑をかけた分なんとか喜んで欲しい一心だったと。

 

サンマルクというレストランは「チョコクロ」というクロワッサンでカフェが一躍有名になりましたが、元々はコース料理が気軽に食べられる高級ファミリーチェーンとして出発した企業です。特にアニバーサリーに強く(お誕生日コースや結婚記念日コースなど、一度利用してアンケートに記入した方はハガキが届いたんじゃないかな)お客様自身にも思い入れがあるお店として認知されているはずです。

 

 

いまだから告白しますが閉店する話はその年の4月におおよそ決まっていました。アルバイトさんに発表したのは多分11月過ぎてからだと思います。ひどい店長ですいません。

なんとか盛り返せないかと努力を惜しまなかったのですが、状況は好転せず6月に本決まりでサンマルク本社との契約は1月までとなりました。(契約上半年前に取り決めなくてはいけない)

 

そうして1月、

 

在籍しているアルバイトやパートの方々の転職先など不安要素は山ほどありましたが、1月までなんとか無事に営業を続けることができました。閉店まで残ってアルバイトを続けてくれた皆さま本当にありがとうございました。さっさと他のアルバイトを探すことだってできたのに、みんな続けてくれたんですよね。

それどころか、どこで知ったのか歴代のアルバイトさんたちが次々と店に来てくれたのです。遠い人だと結婚して茨城に引っ越したアルバイトの子がわざわざ埼玉まで来てくれたりもしました。

 

 

どうせ壊しちゃうんだし、落書きをしよう!

 

 

「お店の壁に落書きをしてもいいよ」とアルバイトの子たちに言うと、喜んで色々書いてくれました。

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全部写真に撮ったんだけど、ちょっとだけ貼ってみた。

さらにみんなで集まって食事したりして思わぬ同窓会気分!

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懐かしいなあ。

 

 

と、こんなに愛されてたのかと思うと泣けてきます。

お客様からも「残念だ、残念だ」と声をかけてくれたりして。。。

 

 

 

 

その後、

お店は1月18日で閉店(この日が開店記念日でもありました)すぐに店内取り壊しとなりました。

どんなに人の想いがあろうが、短いながらも歴史があったとしても、ぶっ壊しちゃえばもう何も残らないのです。

たぶん何千人と余りあるほど、この店でお誕生日会や結婚記念日を祝ってくれたことでしょう。この店でプロポーズをして結婚を決めたカップルもいました。お婆ちゃんがたった一人で来店されて二人分のコース(結婚記念日)を注文されたときは泣きました(その前年までは二人で来てたんですよね)ピアノの生演奏をしたり、JAZZをやってみたり。。。いろいろな想い出を湖の底深くに沈めたはずなのに、たまに浮き上がってくるのは仕方ないこと。懺悔の気持ちしかないですが、ようやく心の整理ができました。

最後の店内からぶっ壊すところまで貼っておきます。どうかこれを見た人が、店が潰れるってこんなに悲しいことなのかと、ちょっとでも感じてもらえたらなと思います。

時は心の治療薬であるように、いまでは過去の思い出たちも湖の底で浄化されて思いだされます。

 

youtu.be

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「さよなら」といった不思議な少年の話

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幼稚園時代、僕は近所の子が通う幼稚園ではなくて、キリスト系の幼稚園に通っていた。神様にお祈りしてからお弁当の時間だったので、不確かな記憶だけど、きっとそうに違いないのだ。僕はお祈りのとき必ず目を瞑ったフリをして、ちょっぴり薄目を開けたりして周りの様子を伺う小賢しいやつだった。

そこは「はとり幼稚園」といって、忘れもしない担任の先生の名前は「ほしのせんせい」だった。先生は「みんなの知らない遠い星から幼稚園に来たんだよぉ!だからほしのせんせいなのよ!」って説明してくれた。僕は小学生になるまで「星から来た星の先生」と信じて疑わなかった。根は真面目なのだ。知らない人に声を掛けられても臆さず挨拶できるほどに。

 

 

 

いま思えば僕は少々おかしな子どもだった気がする。

 

近所の子どもは足漕ぎの車で遊んでいたけれど、僕だけは三輪車を愛用した。当時は本当いい加減で、子ども用の遊具は団地の外に置きっぱなしで誰が誰の乗り物に乗っても構わない時代だったのだ。三輪車は団地の先代が置いていって持ち主はもういないようで、そしてぼくは何故か流線型の車よりも武骨な三輪車のフォルムが好きだったのだ。

 

 

 

さて、詳しく説明しよう。

時は1973年。高度経済成長の勢いが鈍りだしてきたころ、幼稚園に通う僕は、埼玉県浦和市(現さいたま市南区市営住宅団地の4Fに家族と住んでいた。父が横浜の市役所から浦和市役所に引き抜かれた際、優先的に入居できたらしい。まだ近所は荒地が点在していて不法投棄も多く、ブラウン管TVや小型冷蔵庫など電化製品が草むらに棄てられていた。たぶん触ってはいけない危険なガラスとか、変な色のドロドロした溶液とか宝の山がそこらじゅうにいっぱいあった。大きな子たちは秘密基地を次々と作り、よく僕ら小さい子たちを基地へ案内してくれた。

また、僕らは「サハラ砂漠」と呼ばれる広場で遊ぶことも多かった。

それは宅地造成のため平らに均された土地だったのだけれど、強い風が吹くと土埃が渦を巻く様子を見た誰かが「サハラ砂漠」と命名したのだ。なんとも素晴らしいネーミングセンスである。

日曜日は「瀬田先生」のお宅まで歩いて行った。先生の家には児童書がたくさんあったのだ。絵本や挿絵の入った小説などが山ほどあり、先生は家ごと私設図書館として近所の子どもに開放してくれていたのだ。当時は意味もなく「せたせんせい」と呼んでいたけれど、あとから気づけばその方は「ライオンと魔女」で有名な「ナルニア国物語」の翻訳をされた瀬田卓司先生だった。

その瀬田先生の自宅から近所のボウリング場まで行って「綿菓子製造機」で綿菓子を作ったことがあった。1回10円で綿菓子が作れたのだが機械が壊れて止まらなくなって、一緒にいた友だちと無限にザラメを投入して顔中ベッタベタになるまで綿菓子を堪能したあと大人を呼びに行ったことがある。もう時効だよね。

いまでもそうなのだけど、僕は幼稚園児のころから目を開けていても閉じていても小さな白い光をみることができたりする。明るい白とその周りを赤と青の鈍い光がゆっくりと流れているのがみえるのだ。これはネットで調べたら案外いるようで、昨今のネット普及で少数ながら仲間がいて安心している。原因は不明だが視覚ではない(目を閉じてもみえるから)ので網膜に映った残像を追っているのかもしれないと思っている。

ただそれだけでない。僕は空から電気が降り注ぐ光景に出会ったこともある。雨が地面に落ちる速度よりも遥かにゆっくりと、青白く光る棒状の電気(都合上電気と表現する)が降り注ぐのだ。僕はこの光景を団地の窓からぼんやりみていた。これは未だに解決できていない不思議現象だ。

 

やはりおかしな子であろう。幼稚園の時に受けたIQテストで数字の「2」を見せられて「ワニ(爬虫類)」と言い切ったのも僕である。IQが高いと親は喜んだようだけど、そんなこと僕にはいい迷惑だった。こんなのただの変わり者でしかない。

 

 

そして僕は小学校2年生の6月まで住んでいた団地を後にして、上尾市というところへ引っ越していった。

 

 

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数年前のある日(この当時僕は9カ月ほど失職中だった)

何故か僕はこの生まれて幼少期を育った場所にいってみようと決心した。そう車で遠くもないし、単純にいまどうなってるのかなあ?なんてオセンチな気分になってしまったのだから仕方ない。

住所はよくわからず、ただ道は何となく覚えていて、旧大宮市の氷川神社脇の産業道路を南進、旧与野市を超えて、旧浦和市へ。右手に浦和競馬場が見えたらすぐ左へ入る。。。

うっわぁ懐かしいな!

となった。それは幼少のころからあった薬局がまだあったからだ。サトちゃんは何代目かわからないが、店頭にはキレイな象のサトちゃんが笑顔を浮かべていた。ただそれは一瞬の出来事で、その他は知らない、覚えていない店が数件並んでいた。

緩やかな坂道を下ると「はとり幼稚園」は存在していた。中を覗くことはできないけれど、何となく安堵した自分がいる。

その先にあるはずだった「フジパン」はもうなくなっていた。

よく考えれば当時経営していた人たちはもう亡くなっているはずで、2代目がいればお店も続けているだろうけど、それはなかなか難しい。時間はそう簡単には止められない。古いものは新しくなりながらゆっくり新陳代謝を繰り返し、時間のピースを積み重ねてゆく。

ここから先は道路が二つに分かれて下の住宅地と上の団地に行けるようになっている。これもそのままだ。そして団地は建て替えられてきれいになって現存していた。ただもう面影は全くない。団地の近所でラジオ体操した空地もなくなり住宅地になっていた。その空き地からサトちゃん薬局へ抜ける秘密の裏道もなくなっていた。湿地帯だった荒地も全て住宅が立ち並んでいた。正直道がわからない。荒地の真ん中にあった「サハラ砂漠」など、もはやどの辺りか見当もつかない。

車を停めて、少し歩いてみた。

小学校(大谷口小学校)までの道のりは当時6歳の子どもには大変だったけど、いま歩けば案外近いなという印象。ただ通学途中にあった競走馬の厩舎は跡形もなくなくなってしまっていた。ここは小学1年生だったころ火事で燃えてしまったのだけど、もしかしたらその時すでに見切りをつけて移転していたのかもしれない。

僕は大谷口小学校開校時の新1年生だったけれど、そこはもう開校から30何年経過していて古い学校になっていた。気がつけば裏に中学校も出来上がっていた。

 

それでも、

それでも、歩いていると、曲がりくねった「けもの道」の感じとか、左に曲がりながら下る学校への坂道とか、足から伝わる感覚がぐるぐると時代を巻き戻してゆく。だんだんと僕の目蓋に当時の景色が薄っすら蘇ってくるから不思議だ。僕は幼少の頃のいろいろをゆっくりと思いだしていた。

 

団地の裏の森には魔女のおばあさんが住んでいて「遅くまで外で遊んでいると魔女に連れていかれちゃうぞ」と、大人たちから聞かされていたこと。湿地帯だった荒地には青大将という大蛇が住んでいて怖かったこと。アメリカザリガニが山ほど獲れたこと。道はまだ舗装されていなくて、きれいな色のガラスの破片やビー玉が土から顔を出していたこと。。。

いま見れば、団地の裏にあった森もただの雑木林で、その先には普通に住宅が立ち並んでいた。もう地面はアスファルトで覆われていて土の道はなく、ビー玉も落ちてはいない。

 

記憶は記憶でしかなく、僕はいまを生きているのだ。

 

 

僕が停めていた車に戻ってくると、いまどき珍しい三輪車に乗った子どもに遭遇した。

僕はこの辺りに住む近所の人じゃないし、いきなり不審者に間違われてはこまるなあと思い、

 

「こんにちは」

 

とだけその子どもに挨拶をした。

 

その子どもはこちらをチラッと見て突然

 

「さよなら」

 

と挨拶してくれた。

 

。。。

その瞬間、たったいま見ていた世界がぐるぐると周りはじめ、よくドラマの演出にあるような、時計の針がぐるぐると凄いスピードで逆回転する感覚に僕は陥った。動悸がひどい。

 

そして、ハッと気がついた。

 

そう、その子どもは紛れもなく自分だったからだ。

 

ただ、その印象的な「さよなら」という言葉に、失業中で沈みがちだった気持ちにようやく踏ん切りをつける気持ちになった。そうだよ、甘っちょろい過去とはもう決別しなければいけないのだ。

 

 

 

前を向く。

そう、僕は前だけを向くことにした。

もちろん振り返ったそこには、もう誰もいないからである。