「さよなら」といった不思議な少年の話
幼稚園時代、僕は近所の子が通う幼稚園ではなくて、キリスト系の幼稚園に通っていた。神様にお祈りしてからお弁当の時間だったので、不確かな記憶だけど、きっとそうに違いないのだ。僕はお祈りのとき必ず目を瞑ったフリをして、ちょっぴり薄目を開けたりして周りの様子を伺う小賢しいやつだった。
そこは「はとり幼稚園」といって、忘れもしない担任の先生の名前は「ほしのせんせい」だった。先生は「みんなの知らない遠い星から幼稚園に来たんだよぉ!だからほしのせんせいなのよ!」って説明してくれた。僕は小学生になるまで「星から来た星の先生」と信じて疑わなかった。根は真面目なのだ。知らない人に声を掛けられても臆さず挨拶できるほどに。
いま思えば僕は少々おかしな子どもだった気がする。
近所の子どもは足漕ぎの車で遊んでいたけれど、僕だけは三輪車を愛用した。当時は本当いい加減で、子ども用の遊具は団地の外に置きっぱなしで誰が誰の乗り物に乗っても構わない時代だったのだ。三輪車は団地の先代が置いていって持ち主はもういないようで、そしてぼくは何故か流線型の車よりも武骨な三輪車のフォルムが好きだったのだ。
さて、詳しく説明しよう。
時は1973年。高度経済成長の勢いが鈍りだしてきたころ、幼稚園に通う僕は、埼玉県浦和市(現さいたま市南区)市営住宅団地の4Fに家族と住んでいた。父が横浜の市役所から浦和市役所に引き抜かれた際、優先的に入居できたらしい。まだ近所は荒地が点在していて不法投棄も多く、ブラウン管TVや小型冷蔵庫など電化製品が草むらに棄てられていた。たぶん触ってはいけない危険なガラスとか、変な色のドロドロした溶液とか宝の山がそこらじゅうにいっぱいあった。大きな子たちは秘密基地を次々と作り、よく僕ら小さい子たちを基地へ案内してくれた。
また、僕らは「サハラ砂漠」と呼ばれる広場で遊ぶことも多かった。
それは宅地造成のため平らに均された土地だったのだけれど、強い風が吹くと土埃が渦を巻く様子を見た誰かが「サハラ砂漠」と命名したのだ。なんとも素晴らしいネーミングセンスである。
日曜日は「瀬田先生」のお宅まで歩いて行った。先生の家には児童書がたくさんあったのだ。絵本や挿絵の入った小説などが山ほどあり、先生は家ごと私設図書館として近所の子どもに開放してくれていたのだ。当時は意味もなく「せたせんせい」と呼んでいたけれど、あとから気づけばその方は「ライオンと魔女」で有名な「ナルニア国物語」の翻訳をされた瀬田卓司先生だった。
その瀬田先生の自宅から近所のボウリング場まで行って「綿菓子製造機」で綿菓子を作ったことがあった。1回10円で綿菓子が作れたのだが機械が壊れて止まらなくなって、一緒にいた友だちと無限にザラメを投入して顔中ベッタベタになるまで綿菓子を堪能したあと大人を呼びに行ったことがある。もう時効だよね。
いまでもそうなのだけど、僕は幼稚園児のころから目を開けていても閉じていても小さな白い光をみることができたりする。明るい白とその周りを赤と青の鈍い光がゆっくりと流れているのがみえるのだ。これはネットで調べたら案外いるようで、昨今のネット普及で少数ながら仲間がいて安心している。原因は不明だが視覚ではない(目を閉じてもみえるから)ので網膜に映った残像を追っているのかもしれないと思っている。
ただそれだけでない。僕は空から電気が降り注ぐ光景に出会ったこともある。雨が地面に落ちる速度よりも遥かにゆっくりと、青白く光る棒状の電気(都合上電気と表現する)が降り注ぐのだ。僕はこの光景を団地の窓からぼんやりみていた。これは未だに解決できていない不思議現象だ。
やはりおかしな子であろう。幼稚園の時に受けたIQテストで数字の「2」を見せられて「ワニ(爬虫類)」と言い切ったのも僕である。IQが高いと親は喜んだようだけど、そんなこと僕にはいい迷惑だった。こんなのただの変わり者でしかない。
そして僕は小学校2年生の6月まで住んでいた団地を後にして、上尾市というところへ引っ越していった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数年前のある日(この当時僕は9カ月ほど失職中だった)
何故か僕はこの生まれて幼少期を育った場所にいってみようと決心した。そう車で遠くもないし、単純にいまどうなってるのかなあ?なんてオセンチな気分になってしまったのだから仕方ない。
住所はよくわからず、ただ道は何となく覚えていて、旧大宮市の氷川神社脇の産業道路を南進、旧与野市を超えて、旧浦和市へ。右手に浦和競馬場が見えたらすぐ左へ入る。。。
うっわぁ懐かしいな!
となった。それは幼少のころからあった薬局がまだあったからだ。サトちゃんは何代目かわからないが、店頭にはキレイな象のサトちゃんが笑顔を浮かべていた。ただそれは一瞬の出来事で、その他は知らない、覚えていない店が数件並んでいた。
緩やかな坂道を下ると「はとり幼稚園」は存在していた。中を覗くことはできないけれど、何となく安堵した自分がいる。
その先にあるはずだった「フジパン」はもうなくなっていた。
よく考えれば当時経営していた人たちはもう亡くなっているはずで、2代目がいればお店も続けているだろうけど、それはなかなか難しい。時間はそう簡単には止められない。古いものは新しくなりながらゆっくり新陳代謝を繰り返し、時間のピースを積み重ねてゆく。
ここから先は道路が二つに分かれて下の住宅地と上の団地に行けるようになっている。これもそのままだ。そして団地は建て替えられてきれいになって現存していた。ただもう面影は全くない。団地の近所でラジオ体操した空地もなくなり住宅地になっていた。その空き地からサトちゃん薬局へ抜ける秘密の裏道もなくなっていた。湿地帯だった荒地も全て住宅が立ち並んでいた。正直道がわからない。荒地の真ん中にあった「サハラ砂漠」など、もはやどの辺りか見当もつかない。
車を停めて、少し歩いてみた。
小学校(大谷口小学校)までの道のりは当時6歳の子どもには大変だったけど、いま歩けば案外近いなという印象。ただ通学途中にあった競走馬の厩舎は跡形もなくなくなってしまっていた。ここは小学1年生だったころ火事で燃えてしまったのだけど、もしかしたらその時すでに見切りをつけて移転していたのかもしれない。
僕は大谷口小学校開校時の新1年生だったけれど、そこはもう開校から30何年経過していて古い学校になっていた。気がつけば裏に中学校も出来上がっていた。
それでも、
それでも、歩いていると、曲がりくねった「けもの道」の感じとか、左に曲がりながら下る学校への坂道とか、足から伝わる感覚がぐるぐると時代を巻き戻してゆく。だんだんと僕の目蓋に当時の景色が薄っすら蘇ってくるから不思議だ。僕は幼少の頃のいろいろをゆっくりと思いだしていた。
団地の裏の森には魔女のおばあさんが住んでいて「遅くまで外で遊んでいると魔女に連れていかれちゃうぞ」と、大人たちから聞かされていたこと。湿地帯だった荒地には青大将という大蛇が住んでいて怖かったこと。アメリカザリガニが山ほど獲れたこと。道はまだ舗装されていなくて、きれいな色のガラスの破片やビー玉が土から顔を出していたこと。。。
いま見れば、団地の裏にあった森もただの雑木林で、その先には普通に住宅が立ち並んでいた。もう地面はアスファルトで覆われていて土の道はなく、ビー玉も落ちてはいない。
記憶は記憶でしかなく、僕はいまを生きているのだ。
僕が停めていた車に戻ってくると、いまどき珍しい三輪車に乗った子どもに遭遇した。
僕はこの辺りに住む近所の人じゃないし、いきなり不審者に間違われてはこまるなあと思い、
「こんにちは」
とだけその子どもに挨拶をした。
その子どもはこちらをチラッと見て突然
「さよなら」
と挨拶してくれた。
。。。
その瞬間、たったいま見ていた世界がぐるぐると周りはじめ、よくドラマの演出にあるような、時計の針がぐるぐると凄いスピードで逆回転する感覚に僕は陥った。動悸がひどい。
そして、ハッと気がついた。
そう、その子どもは紛れもなく自分だったからだ。
ただ、その印象的な「さよなら」という言葉に、失業中で沈みがちだった気持ちにようやく踏ん切りをつける気持ちになった。そうだよ、甘っちょろい過去とはもう決別しなければいけないのだ。
前を向く。
そう、僕は前だけを向くことにした。
もちろん振り返ったそこには、もう誰もいないからである。
ZARDという付箋(最終回)そしてZARDはタイムマシンになった
外は完全に明るくなっていた。
20分休憩はあっという間だった。最初の10分休憩はかなりリフレッシュできたのだが、逆に20分休憩するとぼんやりしてしまう。脳が疲弊しているのか人の声がどこか遠くで聞こえるような錯覚を覚えてしまう。そう。。。学生の頃にやる遊びの徹夜と仕事でやる本気の徹夜は疲労度が桁違いなのだ。
例えば、5時間以上ZARDを連続で聴いていて(しかも14曲のみ)僕らは「負けないで」がリピートしてくる時間で、どれだけ仕事が進捗しているのかが体感できるという能力を身につけるほど集中力を発揮していたのである。犬でやる実験のようである。人体実験もほどほどにしないと、本当倒れてしまうのだ。
「よし!やるか!おめぇら!潰れんじゃねぇぞ!」
組長の気合が僕らをピリッとさせる。これもう完全に男が男に惚れている状態なのだ。
そうして最後の戦いが始まった。弁当箱を並べる僕らももう慣れたものだ。。。が、すぐにとんでもないアクシデントが僕らを襲う。。。
「弁当箱足りません!」
弁当箱は2200個ぴったり準備していた。もちろん予備の弁当箱はあるのだが、足りないということは弁当箱(薄いプラ箱)が1回目と2回目で作った1600個の弁当の中で、2枚重なっているということなのだ。
「段ボール開けて探すぞ!」
組長のかすれ気味の声がギリギリで士気を保っていてくれる。
だが地獄である。これ最初の1個だったら詰め込んだ弁当を段ボール全部から取り出さなくちゃならないのだ。満タンに弁当が詰め込まれた大きな段ボールはすでに20個くらいある。これでは余裕だった時間がどんどん失われてゆく。もうすでに「負けないで」がかかっているじゃないか。。。
「あ、ありましたーーーーーーー!」
幸運なことに、2回目のほうの段ボール箱の中から重なっていた弁当が発見されたのだ。みんな安堵するも力ない笑顔だ。否が応でも精神的にギリギリの状態だということをわからせてくれる。脳をジンジンさせながら、僕らは段ボール箱に弁当を入れ直した。やはりちょっとのミスも許されない。あとの代償が大きすぎる。。。僕らは気を引き締め直して再び弁当詰め作業に戻っていった。「負けないで」まではまだ5曲ある。
6時になるとパートで働いてくれている主婦が陣中見舞いに来てくれた。男ばっかりでやっているなかに女性の声が響くと、驚くほどの安らぎが身体中を覆ってくれる。これでプラス2名!さらに調理場からヘロヘロの料理人とバイト、三浦さんも駆けつける。
「もうちょっとじゃけぇ、早よ終わらせんとぉ」
なんで三浦さんはこんなに元気なんだろう。。。ただ右手首にはシップがべたべた貼られテーピングされている。どう考えても物を切り過ぎなのだ。満身創痍とはこのことである。
そうこうするも、一気に人数が増えたわけで一気に終わりが見えてきた。しかも数は最初より少ない600個。思ったよりもだいぶ早くクライマックスがやってきたのだ。僕は何故あんなに終わらないかもとビクビクしていたのだろう。おおよそ組長の計算通りなのだ。
「終わりかー!最後よーくチェックしろーーーー!」
組長の最後の気合が入る。
そして朝7時30分。僕らは2200個の弁当を作り終えたのだ。0時から始めて7時間半。人間やってやれないことはないのである。
そうして、
臨時のテーブルを片付けながら、僕は少しだけ名残惜しくなっていた。馬鹿みたいな弁当祭りでも、終わってしまうと思うとどこか寂しさがあったりする。おかしいことに、終わった瞬間の達成感よりも、実は終わってしまう物哀しさのほうが大きいのだ。
組長一行は、もうすぐに持ち場に帰るという。なんと今晩80人のパーティーを控えているという。もう鉄人としか言いようがない。僕らは日産の入社式後のパーティーが無くてホッとしていたというのに。
「ありがとうございました」
「おうっ」
組長は感慨深さなど微塵もみせずに「じゃ、あとはヨロシク!」という言葉を残して帰っていった。他のメンバーもそれぞれの持ち場へ帰ってゆく。祭り事は終わったのだ。
この弁当作りの経験があるからこそ、いまでも僕は何事にも負けない精神力を発揮できるのだ。いや、このとき本当に辛かったのだけれど、これを思えば大抵のことは乗り越えられる。シンプルに段取りを組み、計算をする。想像を超える何かがあっても活路は必ず見いだせるのだ。
ラヂオの良いところは予想だにしない曲が不意に流れてくるところだろう。
何故ならZARDは、あのときの辛い極限で楽しかった瞬間へあっという間に僕を連れて行ってくれる。
その時聴いていた音楽は、いつしかその時間の付箋となって想い出のページを開きやすくしてくれる。誰しもが自分の人生ノートにヒット曲の付箋がいっぱいついているはずで、それはたくさんの楽しかった想い出だったり、ときには辛く思いだしたくもない哀しい記憶もあるだろう。ただ、ただそれでも時間とともに辛かった出来事は、ゆっくりと浄化され、やがてほろ苦く味わえる時がやってくる。
それぞれの付箋を無作為に気づかせてくれるラヂオが、なんだか僕は割と好きなのである。
ZARDという付箋③今日の朝は、二度とない朝
「やるか!」
パンッ!と組長の大きな手拍子で、僕らは一斉に段ボール箱を開け弁当箱を取り出し始めた。戦争の始まりである。
調理場に3人(三浦さんともう一人若手料理人と雑用バイトの子)、詰める係に10人という配分でスタートしたのだが、数が数である。空の弁当箱を並べるだけでも大作業なのだ。
会議室によくある折り畳み式の長テーブルと、レストランのテーブルを合わせて作業台を作り、その臨時会場に散らばって僕らはテーブルの上に隙間なく空の弁当箱を並べてゆく。まだみんな慣れない作業のため異様に時間がかかる。初対面の遠慮からか人の連携もままならず
「お願いします」
「すいません」
「お願いします」
「すいません」
のようなよそよそしい態度でぎくしゃくしている。
なんとか800個並べ終えて時計をみると0時50分だった。弁当箱を並べるだけで、およそ1時間近くかかったのである。計算では800個3時間で終わらせる予定である。「終わるのか?」という不安に圧し潰されそうになりながら、僕らは一心不乱で総菜を詰め込みむのだった。
弁当箱はA列250、B列250、C列300な感じで並べ、A列はご飯を詰め、B列は桜大根とポテトサラダ、C列はできたばかりの竹輪の磯部揚げを詰め込んでいた。さらにA列の反対側から焼き鮭を詰め、B列反対側からは卵焼き、C列は。。。のように10人が一斉に詰めてゆくのである。ZARDがこれでもかってくらい大音量で流れる場内。。。僕らは無限に並ぶ弁当箱に、詰めて詰めて詰めまくるしかないのである。
雑用係のバイトが番重(アルミでできた積み重ねられる業務用の大きな箱)いっぱいに唐揚げを入れて持ってくる。
「唐揚げできましたー!」
「おぅ兄ちゃん!威勢がいいなぁ!」
組長は余裕である。
「兄ちゃん!つまみ食いしてっとあとでえらい目にあうぞ!カカカカカカカカ!」
と組長は高笑いである。
「おい!ここ鮭ねえぞ!鮭!ミスはさけられねぇってことか!カカカカカカカカ!」
!!!! 組長。。。この人全体を見ているのである。士気を高めるため自ら声を出し、単調な作業に変化をつけているのだ。
周りを見れば、みんな無表情で弁当箱に向かいロボットのように総菜を詰め込む作業を繰り返している。僕らは何かに覚醒したような状態で詰め込んではいるが、それはもはや人間の限界を超えていて、どうしてもミスが出てしまう。順番に詰めるだけとはいえ、抜けが出てしまうのはやむを得ない。ただそれを最小限にするため集中力をギリギリ維持させる緩衝材的な役割のZARDや、組長の声掛けが必要だったのだ。歴戦を戦い抜いてきた闘将はやはり違うのである。
「おぅここ唐揚げねぇぞ!唐揚げなかったらお手上げだぞ!」
どう考えても笑えない組長のダジャレだが、時間も時間、覚醒してる僕らはおかしくて仕方がない。
そうこうしている間にあらかた詰め終えた僕らは、ひとつひとつ総菜の抜けがないかチェックしながら弁当箱の蓋をしめてゆく。10人が20個の目で確認するのだけれど、この最終のチェックまで潜り抜ける抜けがあったりして驚かされる。
「梅干しねぇよ。。。やべぇやべぇ。。。」
蓋を閉め、段ボール箱に詰め、第一弾の800個が完成である。ここまで3時10分。
「よし!10分休憩!しっかり休め!作業はするな!」
と言って組長は目を閉じた。この人10分寝る気なのである。
10分くらいじゃ。。。と思っていたが、何もしないでコーヒーを飲む。初めて会った料理人たちと「そっちの店はどう?」とか話をする。ZARDはもう何度もリピートしていて曲順を完全に覚えてしまっている。そんな10分間、だいぶリフレッシュされるのである。はやる気持ちを抑えてでも休む必要があるのだ。組長の指示はすべての経験則に基づいているのだろう。とても勉強になっている。
「んじゃぁ2回目行くぞ!」
パンッという組長の手拍子で作業再開。僕らはまた一から弁当箱を並べ作業を始める。
早い。明らか慣れている僕らはだいぶ手順が良くなっていた。人間関係も構築され、気がつけばだいぶやりやすくなってる。弁当箱は30分で並べ終えた。詰め込み作業も2回目なので、思った以上にスムーズに作業がはかどるのである。まぁそれでも
「お手上げぇ~~~!」
と組長が大声をだして慌てて唐揚げをもっていったり、
「酒、酒、酒が飲みてぇなぁ~~~!」
といえば焼き鮭をもっていったりもするのだが。
調理場からはありったけの番重に、唐揚げや竹輪の磯部揚げ、焼き鮭が出来上がってくる。三浦さんも化け物である。
後で聞いた話だが、この揚げ物を揚げるのにフライヤー(超でかい揚げ物の設備)フル稼働で、サラダ油18缶(一斗缶 約18ℓが18缶)使ったそうである。フライヤーに油を満タンで6缶使い、途中油が死んで(コシがなくなる感じ)入れ替えて死んで入れ替えての18缶である。揚げ物担当は若い料理人だったけど、身体中が油臭くなり途中で吐いたそうだ。ちなみに雑用バイトも始めのうちつまみ食いとかしてたけど、途中気持ち悪くなって吐いていたそう。だから組長がつまみ食いすんなって言ってたのね。
ZARDの「負けないで」だけが耳奥に何度もリピートするなか2回戦目も無事終了。時間は5時半である。早い!めちゃめちゃ早くなってるのである。完全身体が仕上がっているのである。店の中から外をみるとだいぶ明るくなってきていた。もう前日から働き始めて20時間ぶっ通しである。なのになんて清々しい朝。まだあと一回戦残っているというのに、僕は完全にハイになっていた。
「よし!20分休むぞ!」
ZARDという付箋②組長登場と呪詛の響き
「はい、わかりました」
と言うしかなかった。断れない。。。いや、断れるわけがない。どうやってやるかなんてわからないけど、2200個の弁当を作るしか選択肢がないのだ。
僕は料理人の三浦さんに相談した。
「2200個弁当の注文受けたんですけど、応援てホテルに頼めますよね?」
三浦さん自身も、いぶし銀の料理人である。弁当作るのに鮭を1本仕入れて下ろすのである。僕なら冷凍の切り身を発注するところだ。三浦さん曰く
「売ってる切り身じゃ全部が同じ大きさにならんじゃろ。尻尾のほうは別のパーティーで使うからええんじゃ」
広島の人である。この三浦さん、なんとサンドイッチのパンも手切りなのだ。1枚1枚単価に合わせて薄さを調整するのだそう。。。雰囲気は「わし、不器用ですから」って言う”健さん”みたいだけど、そりゃあもう、めちゃめちゃ細かい仕事ぶりなのだ。
さて、その三浦さん、しばらく考えて
「組長を呼ぼう!」
と言い出した。僕にはさっぱりわからない。とりあえず組長と呼ばれる人は、三浦さんが同じ社内(ホテル)で一番信頼してる料理人だそうで、過去に弁当地獄を何度も経験しているスペシャリストらしいのだ。三浦さんが直接電話をしてくれるという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして、その日の夕方に、事情を知った組長から直接電話がかかってきた。
「弁当2200か!えれえもん受けたなぁ!まぁ何とかしてやっから食材だけ揃えておきな!」
江戸っ子である。べらんめえ口調で脳内変換して欲しい。組長からの電話は
①当日は0時からスタート、余裕をもって8時には全部終わらせる(搬出は9時)
②若い衆は連れていくので心配しないでよい。
③常にコーヒーを飲める状態にして、音楽を切らさないこと。
であった。いたってシンプル。2200個の弁当を8時間で作る(人の手だけで)が可能なのかどうなのかさっぱりわからないけど、ここは組長を信頼するしかない。当日までまだ日があるのに、すでに胃が痛い。とにかく弁当箱や割り箸、バラン(緑色の草の形した飾り)など備品の発注と、食材(なんでも2200個分の鮭を手で切ると料理バカの三浦さんが言っている)の仕入れを100回くらい確認して、ようやく注文したのだった。
さて当日。
そう、その日は普通に営業をしていたのだ。昼間は会議室にコーヒーを出し、弁当を出し、夕方18時まで営業をした。もう胃に穴があくというのはこのことだろうと思うほど、キリキリとした状態が続いている。その日は施設自体も明日の大ホールの準備に追われるので夕方で閉館だった。明日執り行われるのはなんと日産の入社式だったのだ。弁当2200個とは新入社員の昼ご飯なのだ。18時で営業を終えた僕は、一旦自宅に帰り風呂に入ってすぐ戻ってきた。三浦さんは鮭を切っていた(このあと唐揚げの鶏肉も2200人分切るらしい。死ぬぞ?この人!)
そんな三浦さんを尻目に、僕は組長を迎える準備に取り掛かった。
CDラジカセをおもむろに取り出し、準備したのはZARDのベストアルバム!当時出たばかりのシングルコレクション14曲入りだ。「負けないで」なんてピッタリなんじゃないの?この状態に。。。なんて、この時点ではまだ軽く考えていた僕だった。
いよいよ23時。組長の登場である。
テーマ曲がないだけで、白髪頭で角刈りというそのいで立ちは、任侠モノの映画からそのまま出て来た人だった。若い衆(手下の料理人)からも「組長」と呼ばれていて、もはや完全に極道なのである。
そして、お付きの若い衆はなんと7人だった。こっちで集めた5人と組長を合わせても13人。2200個を13人である。噓でしょ。。。である。
真っ青の僕は何分呆然としていたのだろう。。。
組長は真っ白なコックコートに着替えて再び登場していた。組長は、ありったけのテーブルを並べた会議室を見渡して仁王立ちのままべらんめえ口調で開口一番
「3回に分けるか。。。こりゃあ800、800、600の3回戦だな」
と言い切ったのだ。
僕は唾をゴクリと飲みこんでいた。
【続く③今日の朝は、二度とない朝】
ZARDという付箋①レストランの立ち上げ。
ZARDの曲が突然カーラヂオから流れてきた。
ラヂオの良いところは予想だにしない曲が不意に流れてくるところだろう。何故なら僕の中でZARDとは、自ら聴くことのないアーティストのひとつなのだから。車を運転しながら僕は、20年前の今日の日の激動を想って苦笑していた。
30歳になったばかりの僕は、レストランの立ち上げメンバーとしてリゾートホテルから出向することになり、2200人収容できる大ホールを併設した財団の施設へ向かっていた。
いま考えても地獄のような会社である。「これで何とかしなさい」と、当時の社長に現金50万円が入った封筒だけ渡されたのだ。まるで計画がないのである。居抜き物件なので、前の経営者が置いていった食器などはあるけれど、それを見てできるものを考えてやれということなのである。
とりあえず50万円のうち半分使って食材を仕入れ、営業を始めてみた。
そこは大きなホール(2200人収容)と小ホール(300人程度収容)があり、その他会議室などが7Fまであるナンチャラ会館という施設で、会議室利用者に出す仕出し弁当やコーヒーなど作りながらレストランを運営するという基本スタイル。とにかく仕入れた食材を上手に使いながら日々の売上をなんとか現金で稼がなくてはならないのだ。「てるみくらぶ」も真っ青の自転車操業である。
実際、県庁の近くということもあって県の職員に多く利用されるのだがみんな「売掛」で清算をしようとする。正直「殺す気か!」なのである。こっちは手持ちの現金と日々の売上が無ければ食材すら仕入れられないのである(始めたばかりで信用がまだないので業者に対して現金でしか仕入れられない)今日の売上で明日の支払いをするのだ。本社からは一切の援助はない。プラスになった売上を入金するだけで、なんとか上手いことやれのスタイルを断固として貫いてくるのだ。ぞっとするほど立派である。
ところがどうして営業開始してから3ヶ月目には黒字化できたのである。自分は神かと思ったけれど、もともと企業の会議室利用やレセプションなどが多く、仕出し弁当の注文(1500円の弁当50個くれとかザラにある)コーヒーを会議室へ提供する出前注文80人分(1杯400円という高額設定にも関わらず馬鹿みたいに注文する)とか毎日あるのだ。ウハウハである。
レストラン自体には客がさっぱり来ないのだが、出前注文だけやってればロスもほとんどなく儲かって仕方がないのだ。
後でわかったのだが、財団の職員がうちの店を優先して斡旋してくれることで他に頼めない状況を作り出していてくれたらしい。そんなカラクリがなきゃ無理だよね。
そんなこんなで初めての春がもうそこまで近づいてきた3月の初め、僕は財団から1本の内線を受けることになる。それは日産という大企業からの桁外れな注文で、当時僕と、もうひとりの料理人1名、アルバイト1名ではとても太刀打ちできない代物なのであった。
「4月にこの大ホールを日産で使うのですが、その日に1000円のお弁当をお願いしたいんですよ。。。えぇ、2200個です」
【続く②組長登場と呪詛の響き】
携帯がない時代、人には糸電話があった。
高校生だったころ(もう30年以上も前の話だ)用事があって友だちの家に電話をした。文化祭の代休とかで平日の昼間。。。たしか月曜日だったと思う。夜に文化祭の打ち上げをどうする?とか、そんな他愛のない話だったような、うろ覚えな記憶ではあるけれど。
電話はおじさんが出て、「注文じゃないなら後にしてくれるか!」とこっ酷く叱られた。。。そう、友だちの家はラーメン屋で、店の裏にある高校の先生方からよく出前の注文が入るのだ。想像力の働かなかった僕は一瞬ムッとしたのだけれど、よく考えれば店の死活問題だったんだなあと気づかされた。
もちろん普段おじさんは優しい人で、ちょっと江戸っ子が入った気風のいい人だった。あとで電話すると「さっきは悪かったねえ」などと謝ってくれた。想像する大切さを気づかされた最初の出来事かも知れない。
そのころの電話といえば、ダイヤル式が廃れてプッシュホンが普及してきた時代。コードレスホンとかあったのかな?もしあったとしてもブルジョワな家庭にしかなかっただろう。電話を持ちながら、わざと長いコードを引っ張って会話する光景がよくTVドラマで取り上げられていた。トレンディドラマの始まりである。
昭和あるあるで言えば、夜に彼女へ電話する(今では考えられないが、当時家にはひとつしか電話がなかったのだ)ということは、その家の家長であるお父さんが電話に出る可能性があって、それはもうひどく緊張したものだった。頭のいいやつ(たかが知れているが)が考えた「1コールで切って、再度かけ直すルール」を僕らはすぐに取り入れた。それからはみんな安心して夜に長電話をしたものだった。お母さんに怒られるまで。ただ、親になってみればそんなの全部お見通しなわけで、あぁ全部知ってて黙ってたんだな。。。と恥ずかしくなったり。
不便な時代である。不便だからみんな無い知恵を絞って面白いことを考える。当時カメラは高価なもので家に一台しかない代物だった。修学旅行とやらで親にお願いして借りるのが関の山である。もはや彼女と記念写真を撮るためにカメラを持ち出すなんてことはハードルが高すぎた。万が一カメラがあったとしても、それを現像に出して写真屋さんに見られるのもなんとなく恥ずかしかった。あぁなんたる純粋な高校生。。。
そして僕ら高校生は証明写真のBOXを利用することを思いついた。いや、たかが頭のいいやつが編み出したのだ。彼女とふたり、あの狭い空間に入ってボタンを押す。お金はないからケチって白黒のやつだ。チューする強者もいた。僕だった。あぁなんたる不純な高校生。
他人の目を気にしながらBOXの外で写真ができるのを待つ時間。これ以上幸せな青春という時間があっただろうか。出来あがった4枚綴りの細長い写真を手でちぎってふたりでにっこりした。
プリクラの原型である。
携帯のない時代の待ち合わせは奇蹟である。
僕は彼女と過ごす初めてのクリスマスのために、アルバイトで貯めたお金で珊瑚のネックレスとイアリングを用意していた。その日一日を何度も何度もシュミレーションしていた僕は、待ち合わせの駅へ13時に着いた。もちろん約束は14時である。
駅のホームの一番端っこで、僕はもう一度デートコースを復習していた。いや、復習するほどでもない。歩いて公園へ行き、散策して、デパートのレストランへ行くだけだ。30年前の16歳なんてそんなものである。言っておくが当時ディズニーランドはまだ建設中であった。「笑っていいとも」の放送が始まる1年前である。
14時過ぎ。なかなか来ない電車がようやく到着した。遅れていた電車から人がぽろぽろと零れだした。ただ、目を凝らして彼女を探す僕はがっかりする。約束の電車に乗っていないのだ。次の電車は20分後。僕は気を取り直して待つことにした。遅刻魔だった彼女が電車1本遅れるくらい想定内だったと自分に言い聞かせて。(過去に彼女は一度も約束の時間に遅れたことなどなかった)
次の電車にも彼女の姿はなかった。
真っ直ぐなホームである。乗客がひととおり通り過ぎたあとは、見渡す限り車掌さんしかホームに残っていない。
駅の改札まで急いで走っていって確認する僕。彼女はいない。
急いでホームに戻る僕。時間はすでに16時を回っている。21世紀の今、こんなに待っていたら馬鹿の極みである。それでもただ待つしかないのである。
駅のホームからみえる街並みに、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めた。冬なので陽が落ちるのが早いのだ。ラッシュが近くなり電車の本数が多くなる。それでも、それでも彼女は来ない。17時である。計画は台無しである。ただそれ以上に彼女が心配なのだ。
「きっと何かあったに違いない」
僕は彼女を心配するしかなく、ただひたすら彼女の事を考えていた。
次の電車に乗っていなかったら帰ろうと、僕は心に決めていた。
電車から降りる人込みのなか、とうとう僕は彼女を見つけることができなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あろうことか僕は次の電車も待っていた。往生際が悪い事この上ないのである。
次の電車から、彼女は降りてきた。忘れもしない、時計の針は18:40を回っていた。
彼女はいつもの笑顔で「ごめんね」と言った。
僕は嬉しくて嬉しくて、「まずトイレに行ってもいいかな」と彼女に言った。
膀胱が破裂寸前だった僕はなんとか一命をとりとめ、そんな僕に彼女は事の顛末を話してくれた。彼女は約束の電車に乗っていたのだ。
遅れた原因は彼女のせいではなかった(もちろん遅刻した?などと僕は微塵も思ってはいない)彼女の隣にいた乗客が急に具合悪くなって倒れてしまったという。彼女は周りの乗客の助けを借りて具合悪くなった人を一旦ホームへ。駆け付けた職員さんに「あなたも一緒に病院までお願いします」と言われ、お人好しな彼女は結局病院まで付き合わされる羽目になったそうだ。
具合悪くなった人は持病を持っていたそうなのだが、特に大事になることもなく小一時間ほどで回復したそうで、その間、見知らぬ人だというのに彼女は処置室の廊下でずっと待っていてあげたそうだ。お人好しにもほどがあると思う。
その後急いで電車に乗って彼女はやってきた。およそ4時間半(彼女は知らないが僕は1時間前に待っていたので5時間半)彼女は僕が必ず待っていると信じていたという。当たり前田は大リーガーである。
僕だって、
僕だって彼女が来ることしか考えていなかった。糸は繋がっていたのだ。
慮る大切さ。信じる勇気。不便だった時代、僕らはいろんな思いを巡らして毎日を過ごしていた。今は待ち合わせなどしなくても大体の場所でLINEすればいいし、そもそも「ゴメン!人が倒れたからちょっと病院付き添うから」とかLINEすれば、夕暮れの空が黄昏てゆくのをぼんやり見つめなくてもいいのである。いい時代だ。それでも、あの数時間の間に僕はいろんなことを考えたし、きっと自分には大切な時間だったと思えるのだ。
その彼女とは高校卒業とともに疎遠になり、ラーメン屋のおじさんも数年前に亡くなってしまった。
それでも、
それでも、もし、まだ繋がっているのなら、
ピンと張った糸に繋がれた紙コップに向かって、そっと冗談を言ってみたい。
出会った瞬間から別れのカウントダウンは始まっている。
看護師さんの送別会だった。
30名ほどの看護師さんが一堂に会し、酒を飲む。辞めてゆく女性は語学留学のため渡米するようだ。同僚たちはそれぞれ声をかけ、笑いながら涙ぐんでいた。7年間在籍したという。それはそれは積もる話もあっただろう。お店の計らいで(とはいってもピアニストにお願いした僕の計らいなのだが)ピアノの生演奏をプレゼントした。かなり酔っているのか気持ちよくなってしまったのか、看護師たちは皆で合唱して別れを惜しんでいた。久しぶりにいいパーティーに巡り合えたと思う。
深夜2時を回るとだいたいの幹線道路は空いていて、油断しているとだいぶスピードに乗ってしまう。東北自動車道と並走する国道122号線をいつも使っているのだが、浦和から岩槻にかけて信号がないまま5kmほど真っ直ぐな道があって、街灯が飛ぶようにバックミラーに映るときは要注意なのである。
今日のラヂオパーソナリティーは名も知らぬアイドルユニットのようで「はい!〇〇です!はい!△△です!、はい!それでは~」と、やけに話し始めるときの「はい!」が気になってしまった。僕は少しだけボリュームを絞ってハンドルを握りなおした。
最近売れっコの女性タレントではないが、およそ35億の女性がいて35億の男性がいて、当然性別にとらわれない方もいらっしゃるけれど、ひっくるめてこの地球上に世界人口としていま70億人ほど人間が存在しているらしい。
一生のうち、直接出会う人は何人くらいいるのだろう。小学校中学校、高校や大学など社会に出るまですれ違うだけの人も含めたら2000人?3000人?はいるだろうか?直接話しをした人に限定すれば、100人単位まで絞られることだろう。社会人になり、もしも職業に教師など選べば一学年200~300人前後の人と毎年のように出会ったりするけれど、深く関わり合う人となるとそうは多くないはずだ。
つまり出会いは偶然や奇蹟ではない。人は出会うべくして出会うはずの必然だと僕は思っている。どう考えても一生のうち70億と触れ合うことはできないし、日本国内であってもその大多数に出会うことなど皆無なはずだ。間違いなく人との出会いには意味がある。もしもその出会いが偶然だったとしても、それを必然に変えることができるなら生きてゆくうえの指標になり得るかもしれない。
そしてそんな大切な出会いであっても、必ず別れはやってくる。
卒業、転勤、恋人との別れもあるし、死別もまたつらい別れである。
そして、その多くの別れは出会った瞬間から見えないカウントダウンが始まっていて、人にはその数字がいつゼロになるかわからないのである。昨日まで会話していた人が突然事故で亡くなることだってあるのだ。
一期一会に通じるところがあるけれど、明日ゼロになるかも知れぬカウントは毎日確実に進んでいて、だからこそ出会った人とは真剣に向き合うことが必要なのである。
もうずいぶん長いこと飲食店の店長という仕事をやってきたけれど、卒業や就職、転職、海外留学など、それぞれのステージに向かってゆくアルバイトくんたちを、僕は常に世へ送り出してきた。とんでもないことに、高校1年生で採用して大学卒業するまで7年間毎日のように顔を合わせていたアルバイトもいた。15歳から22歳の多感な時期に勉強以外の社会を教えるようなものである。親子並みの感情があってもおかしくないだろう。大学卒業のときは嬉しくて寂しくて泣けてきたものだ。
とはいえ今まで出会ってきた10代に「社会はこうだ!」「大人とはこういうものだ!」などと恩着せがましく論破することなどせず、僕は自分の経験談を話すのが常であったし好きでもあった。もしもこの子が社会に出て壁にぶつかったとき「あのとき店長はこんなこと言っていたなぁ」などと思いだしてくれたら、それで十分なのである。そんな記憶に残る人になることを僕は目標にしているし、そんな人でありたいなぁと常日頃思っている。そう、毎日だ。何故なら明日にでもそのカウントはゼロになるかもしれないのだから。
気がつけばラヂオはいつものメインパーソナリティーに戻っていて、とぼけたジョークを飛ばしながら夜を着々と進めている。直接は会ってないけれど、声だけの人でも記憶に残る人はいる。「一度に何千人、何万人の人の記憶に残るってうらやましい」などと思いながら、僕は国道16号線をひたすら走っている。