さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

ZARDという付箋③今日の朝は、二度とない朝

「やるか!」

パンッ!と組長の大きな手拍子で、僕らは一斉に段ボール箱を開け弁当箱を取り出し始めた。戦争の始まりである。

調理場に3人(三浦さんともう一人若手料理人と雑用バイトの子)、詰める係に10人という配分でスタートしたのだが、数が数である。空の弁当箱を並べるだけでも大作業なのだ。

会議室によくある折り畳み式の長テーブルと、レストランのテーブルを合わせて作業台を作り、その臨時会場に散らばって僕らはテーブルの上に隙間なく空の弁当箱を並べてゆく。まだみんな慣れない作業のため異様に時間がかかる。初対面の遠慮からか人の連携もままならず

「お願いします」

「すいません」

「お願いします」

「すいません」

のようなよそよそしい態度でぎくしゃくしている。

なんとか800個並べ終えて時計をみると0時50分だった。弁当箱を並べるだけで、およそ1時間近くかかったのである。計算では800個3時間で終わらせる予定である。「終わるのか?」という不安に圧し潰されそうになりながら、僕らは一心不乱で総菜を詰め込みむのだった。

弁当箱はA列250、B列250、C列300な感じで並べ、A列はご飯を詰め、B列は桜大根とポテトサラダ、C列はできたばかりの竹輪の磯部揚げを詰め込んでいた。さらにA列の反対側から焼き鮭を詰め、B列反対側からは卵焼き、C列は。。。のように10人が一斉に詰めてゆくのである。ZARDがこれでもかってくらい大音量で流れる場内。。。僕らは無限に並ぶ弁当箱に、詰めて詰めて詰めまくるしかないのである。

雑用係のバイトが番重(アルミでできた積み重ねられる業務用の大きな箱)いっぱいに唐揚げを入れて持ってくる。

「唐揚げできましたー!」

「おぅ兄ちゃん!威勢がいいなぁ!」

組長は余裕である。

「兄ちゃん!つまみ食いしてっとあとでえらい目にあうぞ!カカカカカカカカ!」

と組長は高笑いである。

「おい!ここ鮭ねえぞ!鮭!ミスはさけられねぇってことか!カカカカカカカカ!」

 

 

!!!! 組長。。。この人全体を見ているのである。士気を高めるため自ら声を出し、単調な作業に変化をつけているのだ。

 

 

周りを見れば、みんな無表情で弁当箱に向かいロボットのように総菜を詰め込む作業を繰り返している。僕らは何かに覚醒したような状態で詰め込んではいるが、それはもはや人間の限界を超えていて、どうしてもミスが出てしまう。順番に詰めるだけとはいえ、抜けが出てしまうのはやむを得ない。ただそれを最小限にするため集中力をギリギリ維持させる緩衝材的な役割のZARDや、組長の声掛けが必要だったのだ。歴戦を戦い抜いてきた闘将はやはり違うのである。

 

「おぅここ唐揚げねぇぞ!唐揚げなかったらお手上げだぞ!」

 

どう考えても笑えない組長のダジャレだが、時間も時間、覚醒してる僕らはおかしくて仕方がない。

 

そうこうしている間にあらかた詰め終えた僕らは、ひとつひとつ総菜の抜けがないかチェックしながら弁当箱の蓋をしめてゆく。10人が20個の目で確認するのだけれど、この最終のチェックまで潜り抜ける抜けがあったりして驚かされる。

 

「梅干しねぇよ。。。やべぇやべぇ。。。」

 

蓋を閉め、段ボール箱に詰め、第一弾の800個が完成である。ここまで3時10分。

 

「よし!10分休憩!しっかり休め!作業はするな!」

 

と言って組長は目を閉じた。この人10分寝る気なのである。

10分くらいじゃ。。。と思っていたが、何もしないでコーヒーを飲む。初めて会った料理人たちと「そっちの店はどう?」とか話をする。ZARDはもう何度もリピートしていて曲順を完全に覚えてしまっている。そんな10分間、だいぶリフレッシュされるのである。はやる気持ちを抑えてでも休む必要があるのだ。組長の指示はすべての経験則に基づいているのだろう。とても勉強になっている。

 

「んじゃぁ2回目行くぞ!」

 

パンッという組長の手拍子で作業再開。僕らはまた一から弁当箱を並べ作業を始める。

早い。明らか慣れている僕らはだいぶ手順が良くなっていた。人間関係も構築され、気がつけばだいぶやりやすくなってる。弁当箱は30分で並べ終えた。詰め込み作業も2回目なので、思った以上にスムーズに作業がはかどるのである。まぁそれでも

「お手上げぇ~~~!」

と組長が大声をだして慌てて唐揚げをもっていったり、

「酒、酒、酒が飲みてぇなぁ~~~!」

といえば焼き鮭をもっていったりもするのだが。

 

調理場からはありったけの番重に、唐揚げや竹輪の磯部揚げ、焼き鮭が出来上がってくる。三浦さんも化け物である。

後で聞いた話だが、この揚げ物を揚げるのにフライヤー(超でかい揚げ物の設備)フル稼働で、サラダ油18缶(一斗缶 約18ℓが18缶)使ったそうである。フライヤーに油を満タンで6缶使い、途中油が死んで(コシがなくなる感じ)入れ替えて死んで入れ替えての18缶である。揚げ物担当は若い料理人だったけど、身体中が油臭くなり途中で吐いたそうだ。ちなみに雑用バイトも始めのうちつまみ食いとかしてたけど、途中気持ち悪くなって吐いていたそう。だから組長がつまみ食いすんなって言ってたのね。

 

ZARD「負けないで」だけが耳奥に何度もリピートするなか2回戦目も無事終了。時間は5時半である。早い!めちゃめちゃ早くなってるのである。完全身体が仕上がっているのである。店の中から外をみるとだいぶ明るくなってきていた。もう前日から働き始めて20時間ぶっ通しである。なのになんて清々しい朝。まだあと一回戦残っているというのに、僕は完全にハイになっていた。

 

「よし!20分休むぞ!」

 

 

ZARDという付箋(最終回)そしてZARDはタイムマシンになった】

ZARDという付箋②組長登場と呪詛の響き

「はい、わかりました」

と言うしかなかった。断れない。。。いや、断れるわけがない。どうやってやるかなんてわからないけど、2200個の弁当を作るしか選択肢がないのだ。

僕は料理人の三浦さんに相談した。

 

「2200個弁当の注文受けたんですけど、応援てホテルに頼めますよね?」

 

三浦さん自身も、いぶし銀の料理人である。弁当作るのに鮭を1本仕入れて下ろすのである。僕なら冷凍の切り身を発注するところだ。三浦さん曰く

「売ってる切り身じゃ全部が同じ大きさにならんじゃろ。尻尾のほうは別のパーティーで使うからええんじゃ」

広島の人である。この三浦さん、なんとサンドイッチのパンも手切りなのだ。1枚1枚単価に合わせて薄さを調整するのだそう。。。雰囲気は「わし、不器用ですから」って言う”健さん”みたいだけど、そりゃあもう、めちゃめちゃ細かい仕事ぶりなのだ。

 

さて、その三浦さん、しばらく考えて

「組長を呼ぼう!」

と言い出した。僕にはさっぱりわからない。とりあえず組長と呼ばれる人は、三浦さんが同じ社内(ホテル)で一番信頼してる料理人だそうで、過去に弁当地獄を何度も経験しているスペシャリストらしいのだ。三浦さんが直接電話をしてくれるという。

 

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そして、その日の夕方に、事情を知った組長から直接電話がかかってきた。

「弁当2200か!えれえもん受けたなぁ!まぁ何とかしてやっから食材だけ揃えておきな!」

江戸っ子である。べらんめえ口調で脳内変換して欲しい。組長からの電話は

①当日は0時からスタート、余裕をもって8時には全部終わらせる(搬出は9時)

②若い衆は連れていくので心配しないでよい。

③常にコーヒーを飲める状態にして、音楽を切らさないこと。

であった。いたってシンプル。2200個の弁当を8時間で作る(人の手だけで)が可能なのかどうなのかさっぱりわからないけど、ここは組長を信頼するしかない。当日までまだ日があるのに、すでに胃が痛い。とにかく弁当箱や割り箸、バラン(緑色の草の形した飾り)など備品の発注と、食材(なんでも2200個分の鮭を手で切ると料理バカの三浦さんが言っている)の仕入れを100回くらい確認して、ようやく注文したのだった。

 

 

さて当日。

そう、その日は普通に営業をしていたのだ。昼間は会議室にコーヒーを出し、弁当を出し、夕方18時まで営業をした。もう胃に穴があくというのはこのことだろうと思うほど、キリキリとした状態が続いている。その日は施設自体も明日の大ホールの準備に追われるので夕方で閉館だった。明日執り行われるのはなんと日産の入社式だったのだ。弁当2200個とは新入社員の昼ご飯なのだ。18時で営業を終えた僕は、一旦自宅に帰り風呂に入ってすぐ戻ってきた。三浦さんは鮭を切っていた(このあと唐揚げの鶏肉も2200人分切るらしい。死ぬぞ?この人!)

そんな三浦さんを尻目に、僕は組長を迎える準備に取り掛かった。

CDラジカセをおもむろに取り出し、準備したのはZARDのベストアルバム!当時出たばかりのシングルコレクション14曲入りだ。「負けないで」なんてピッタリなんじゃないの?この状態に。。。なんて、この時点ではまだ軽く考えていた僕だった。

 

いよいよ23時。組長の登場である。

 

テーマ曲がないだけで、白髪頭で角刈りというそのいで立ちは、任侠モノの映画からそのまま出て来た人だった。若い衆(手下の料理人)からも「組長」と呼ばれていて、もはや完全に極道なのである。

そして、お付きの若い衆はなんと7人だった。こっちで集めた5人と組長を合わせても13人。2200個を13人である。噓でしょ。。。である。

 

真っ青の僕は何分呆然としていたのだろう。。。

 

組長は真っ白なコックコートに着替えて再び登場していた。組長は、ありったけのテーブルを並べた会議室を見渡して仁王立ちのままべらんめえ口調で開口一番

 

「3回に分けるか。。。こりゃあ800、800、600の3回戦だな」

 

と言い切ったのだ。

僕は唾をゴクリと飲みこんでいた。

 

 

【続く③今日の朝は、二度とない朝】

 

 

ZARDという付箋①レストランの立ち上げ。

ZARDの曲が突然カーラヂオから流れてきた。

ラヂオの良いところは予想だにしない曲が不意に流れてくるところだろう。何故なら僕の中でZARDとは、自ら聴くことのないアーティストのひとつなのだから。車を運転しながら僕は、20年前の今日の日の激動を想って苦笑していた。

 

30歳になったばかりの僕は、レストランの立ち上げメンバーとしてリゾートホテルから出向することになり、2200人収容できる大ホールを併設した財団の施設へ向かっていた。

いま考えても地獄のような会社である。「これで何とかしなさい」と、当時の社長に現金50万円が入った封筒だけ渡されたのだ。まるで計画がないのである。居抜き物件なので、前の経営者が置いていった食器などはあるけれど、それを見てできるものを考えてやれということなのである。

とりあえず50万円のうち半分使って食材を仕入れ、営業を始めてみた。

そこは大きなホール(2200人収容)と小ホール(300人程度収容)があり、その他会議室などが7Fまであるナンチャラ会館という施設で、会議室利用者に出す仕出し弁当やコーヒーなど作りながらレストランを運営するという基本スタイル。とにかく仕入れた食材を上手に使いながら日々の売上をなんとか現金で稼がなくてはならないのだ。「てるみくらぶ」も真っ青の自転車操業である。

実際、県庁の近くということもあって県の職員に多く利用されるのだがみんな「売掛」で清算をしようとする。正直「殺す気か!」なのである。こっちは手持ちの現金と日々の売上が無ければ食材すら仕入れられないのである(始めたばかりで信用がまだないので業者に対して現金でしか仕入れられない)今日の売上で明日の支払いをするのだ。本社からは一切の援助はない。プラスになった売上を入金するだけで、なんとか上手いことやれのスタイルを断固として貫いてくるのだ。ぞっとするほど立派である。

 

 

ところがどうして営業開始してから3ヶ月目には黒字化できたのである。自分は神かと思ったけれど、もともと企業の会議室利用やレセプションなどが多く、仕出し弁当の注文(1500円の弁当50個くれとかザラにある)コーヒーを会議室へ提供する出前注文80人分(1杯400円という高額設定にも関わらず馬鹿みたいに注文する)とか毎日あるのだ。ウハウハである。

レストラン自体には客がさっぱり来ないのだが、出前注文だけやってればロスもほとんどなく儲かって仕方がないのだ。

後でわかったのだが、財団の職員がうちの店を優先して斡旋してくれることで他に頼めない状況を作り出していてくれたらしい。そんなカラクリがなきゃ無理だよね。

 

 

 

そんなこんなで初めての春がもうそこまで近づいてきた3月の初め、僕は財団から1本の内線を受けることになる。それは日産という大企業からの桁外れな注文で、当時僕と、もうひとりの料理人1名、アルバイト1名ではとても太刀打ちできない代物なのであった。

 

「4月にこの大ホールを日産で使うのですが、その日に1000円のお弁当をお願いしたいんですよ。。。えぇ、2200個です」

 

 

 

 

 

【続く②組長登場と呪詛の響き】

携帯がない時代、人には糸電話があった。

高校生だったころ(もう30年以上も前の話だ)用事があって友だちの家に電話をした。文化祭の代休とかで平日の昼間。。。たしか月曜日だったと思う。夜に文化祭の打ち上げをどうする?とか、そんな他愛のない話だったような、うろ覚えな記憶ではあるけれど。

電話はおじさんが出て、「注文じゃないなら後にしてくれるか!」とこっ酷く叱られた。。。そう、友だちの家はラーメン屋で、店の裏にある高校の先生方からよく出前の注文が入るのだ。想像力の働かなかった僕は一瞬ムッとしたのだけれど、よく考えれば店の死活問題だったんだなあと気づかされた。

もちろん普段おじさんは優しい人で、ちょっと江戸っ子が入った気風のいい人だった。あとで電話すると「さっきは悪かったねえ」などと謝ってくれた。想像する大切さを気づかされた最初の出来事かも知れない。

 

 

そのころの電話といえば、ダイヤル式が廃れてプッシュホンが普及してきた時代。コードレスホンとかあったのかな?もしあったとしてもブルジョワな家庭にしかなかっただろう。電話を持ちながら、わざと長いコードを引っ張って会話する光景がよくTVドラマで取り上げられていた。トレンディドラマの始まりである。

 

昭和あるあるで言えば、夜に彼女へ電話する(今では考えられないが、当時家にはひとつしか電話がなかったのだ)ということは、その家の家長であるお父さんが電話に出る可能性があって、それはもうひどく緊張したものだった。頭のいいやつ(たかが知れているが)が考えた「1コールで切って、再度かけ直すルール」を僕らはすぐに取り入れた。それからはみんな安心して夜に長電話をしたものだった。お母さんに怒られるまで。ただ、親になってみればそんなの全部お見通しなわけで、あぁ全部知ってて黙ってたんだな。。。と恥ずかしくなったり。

 

不便な時代である。不便だからみんな無い知恵を絞って面白いことを考える。当時カメラは高価なもので家に一台しかない代物だった。修学旅行とやらで親にお願いして借りるのが関の山である。もはや彼女と記念写真を撮るためにカメラを持ち出すなんてことはハードルが高すぎた。万が一カメラがあったとしても、それを現像に出して写真屋さんに見られるのもなんとなく恥ずかしかった。あぁなんたる純粋な高校生。。。

そして僕ら高校生は証明写真のBOXを利用することを思いついた。いや、たかが頭のいいやつが編み出したのだ。彼女とふたり、あの狭い空間に入ってボタンを押す。お金はないからケチって白黒のやつだ。チューする強者もいた。僕だった。あぁなんたる不純な高校生。

 

他人の目を気にしながらBOXの外で写真ができるのを待つ時間。これ以上幸せな青春という時間があっただろうか。出来あがった4枚綴りの細長い写真を手でちぎってふたりでにっこりした。

 

プリクラの原型である。

 

 

 

携帯のない時代の待ち合わせは奇蹟である。

僕は彼女と過ごす初めてのクリスマスのために、アルバイトで貯めたお金で珊瑚のネックレスとイアリングを用意していた。その日一日を何度も何度もシュミレーションしていた僕は、待ち合わせの駅へ13時に着いた。もちろん約束は14時である。

駅のホームの一番端っこで、僕はもう一度デートコースを復習していた。いや、復習するほどでもない。歩いて公園へ行き、散策して、デパートのレストランへ行くだけだ。30年前の16歳なんてそんなものである。言っておくが当時ディズニーランドはまだ建設中であった。「笑っていいとも」の放送が始まる1年前である。

14時過ぎ。なかなか来ない電車がようやく到着した。遅れていた電車から人がぽろぽろと零れだした。ただ、目を凝らして彼女を探す僕はがっかりする。約束の電車に乗っていないのだ。次の電車は20分後。僕は気を取り直して待つことにした。遅刻魔だった彼女が電車1本遅れるくらい想定内だったと自分に言い聞かせて。(過去に彼女は一度も約束の時間に遅れたことなどなかった)

 

次の電車にも彼女の姿はなかった。

 

真っ直ぐなホームである。乗客がひととおり通り過ぎたあとは、見渡す限り車掌さんしかホームに残っていない。

 

駅の改札まで急いで走っていって確認する僕。彼女はいない。

 

急いでホームに戻る僕。時間はすでに16時を回っている。21世紀の今、こんなに待っていたら馬鹿の極みである。それでもただ待つしかないのである。

 

駅のホームからみえる街並みに、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めた。冬なので陽が落ちるのが早いのだ。ラッシュが近くなり電車の本数が多くなる。それでも、それでも彼女は来ない。17時である。計画は台無しである。ただそれ以上に彼女が心配なのだ。

 

「きっと何かあったに違いない」

 

僕は彼女を心配するしかなく、ただひたすら彼女の事を考えていた。

 

 

次の電車に乗っていなかったら帰ろうと、僕は心に決めていた。

電車から降りる人込みのなか、とうとう僕は彼女を見つけることができなかった。

 

 

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あろうことか僕は次の電車も待っていた。往生際が悪い事この上ないのである。

 

次の電車から、彼女は降りてきた。忘れもしない、時計の針は18:40を回っていた。

 

 

彼女はいつもの笑顔で「ごめんね」と言った。

僕は嬉しくて嬉しくて、「まずトイレに行ってもいいかな」と彼女に言った。

 

 

 

 

膀胱が破裂寸前だった僕はなんとか一命をとりとめ、そんな僕に彼女は事の顛末を話してくれた。彼女は約束の電車に乗っていたのだ。

遅れた原因は彼女のせいではなかった(もちろん遅刻した?などと僕は微塵も思ってはいない)彼女の隣にいた乗客が急に具合悪くなって倒れてしまったという。彼女は周りの乗客の助けを借りて具合悪くなった人を一旦ホームへ。駆け付けた職員さんに「あなたも一緒に病院までお願いします」と言われ、お人好しな彼女は結局病院まで付き合わされる羽目になったそうだ。

具合悪くなった人は持病を持っていたそうなのだが、特に大事になることもなく小一時間ほどで回復したそうで、その間、見知らぬ人だというのに彼女は処置室の廊下でずっと待っていてあげたそうだ。お人好しにもほどがあると思う。

 

その後急いで電車に乗って彼女はやってきた。およそ4時間半(彼女は知らないが僕は1時間前に待っていたので5時間半)彼女は僕が必ず待っていると信じていたという。当たり前田は大リーガーである。

 

 

僕だって、

僕だって彼女が来ることしか考えていなかった。糸は繋がっていたのだ。

 

 

慮る大切さ。信じる勇気。不便だった時代、僕らはいろんな思いを巡らして毎日を過ごしていた。今は待ち合わせなどしなくても大体の場所でLINEすればいいし、そもそも「ゴメン!人が倒れたからちょっと病院付き添うから」とかLINEすれば、夕暮れの空が黄昏てゆくのをぼんやり見つめなくてもいいのである。いい時代だ。それでも、あの数時間の間に僕はいろんなことを考えたし、きっと自分には大切な時間だったと思えるのだ。

 

その彼女とは高校卒業とともに疎遠になり、ラーメン屋のおじさんも数年前に亡くなってしまった。

それでも、

それでも、もし、まだ繋がっているのなら、

ピンと張った糸に繋がれた紙コップに向かって、そっと冗談を言ってみたい。

 

 

出会った瞬間から別れのカウントダウンは始まっている。

看護師さんの送別会だった。

30名ほどの看護師さんが一堂に会し、酒を飲む。辞めてゆく女性は語学留学のため渡米するようだ。同僚たちはそれぞれ声をかけ、笑いながら涙ぐんでいた。7年間在籍したという。それはそれは積もる話もあっただろう。お店の計らいで(とはいってもピアニストにお願いした僕の計らいなのだが)ピアノの生演奏をプレゼントした。かなり酔っているのか気持ちよくなってしまったのか、看護師たちは皆で合唱して別れを惜しんでいた。久しぶりにいいパーティーに巡り合えたと思う。

 

 

深夜2時を回るとだいたいの幹線道路は空いていて、油断しているとだいぶスピードに乗ってしまう。東北自動車道と並走する国道122号線をいつも使っているのだが、浦和から岩槻にかけて信号がないまま5kmほど真っ直ぐな道があって、街灯が飛ぶようにバックミラーに映るときは要注意なのである。

今日のラヂオパーソナリティーは名も知らぬアイドルユニットのようで「はい!〇〇です!はい!△△です!、はい!それでは~」と、やけに話し始めるときの「はい!」が気になってしまった。僕は少しだけボリュームを絞ってハンドルを握りなおした。

 

 

最近売れっコの女性タレントではないが、およそ35億の女性がいて35億の男性がいて、当然性別にとらわれない方もいらっしゃるけれど、ひっくるめてこの地球上に世界人口としていま70億人ほど人間が存在しているらしい。

 

一生のうち、直接出会う人は何人くらいいるのだろう。小学校中学校、高校や大学など社会に出るまですれ違うだけの人も含めたら2000人?3000人?はいるだろうか?直接話しをした人に限定すれば、100人単位まで絞られることだろう。社会人になり、もしも職業に教師など選べば一学年200~300人前後の人と毎年のように出会ったりするけれど、深く関わり合う人となるとそうは多くないはずだ。

つまり出会いは偶然や奇蹟ではない。人は出会うべくして出会うはずの必然だと僕は思っている。どう考えても一生のうち70億と触れ合うことはできないし、日本国内であってもその大多数に出会うことなど皆無なはずだ。間違いなく人との出会いには意味がある。もしもその出会いが偶然だったとしても、それを必然に変えることができるなら生きてゆくうえの指標になり得るかもしれない。

 

そしてそんな大切な出会いであっても、必ず別れはやってくる。

 

卒業、転勤、恋人との別れもあるし、死別もまたつらい別れである。

そして、その多くの別れは出会った瞬間から見えないカウントダウンが始まっていて、人にはその数字がいつゼロになるかわからないのである。昨日まで会話していた人が突然事故で亡くなることだってあるのだ。

一期一会に通じるところがあるけれど、明日ゼロになるかも知れぬカウントは毎日確実に進んでいて、だからこそ出会った人とは真剣に向き合うことが必要なのである。

もうずいぶん長いこと飲食店の店長という仕事をやってきたけれど、卒業や就職、転職、海外留学など、それぞれのステージに向かってゆくアルバイトくんたちを、僕は常に世へ送り出してきた。とんでもないことに、高校1年生で採用して大学卒業するまで7年間毎日のように顔を合わせていたアルバイトもいた。15歳から22歳の多感な時期に勉強以外の社会を教えるようなものである。親子並みの感情があってもおかしくないだろう。大学卒業のときは嬉しくて寂しくて泣けてきたものだ。

とはいえ今まで出会ってきた10代に「社会はこうだ!」「大人とはこういうものだ!」などと恩着せがましく論破することなどせず、僕は自分の経験談を話すのが常であったし好きでもあった。もしもこの子が社会に出て壁にぶつかったとき「あのとき店長はこんなこと言っていたなぁ」などと思いだしてくれたら、それで十分なのである。そんな記憶に残る人になることを僕は目標にしているし、そんな人でありたいなぁと常日頃思っている。そう、毎日だ。何故なら明日にでもそのカウントはゼロになるかもしれないのだから。

 

 

気がつけばラヂオはいつものメインパーソナリティーに戻っていて、とぼけたジョークを飛ばしながら夜を着々と進めている。直接は会ってないけれど、声だけの人でも記憶に残る人はいる。「一度に何千人、何万人の人の記憶に残るってうらやましい」などと思いながら、僕は国道16号線をひたすら走っている。

 

 

会いたいのなら会いに行け

JAZZの生演奏。売れているには程遠い、けれどいっぱしの演奏は目を見張るものがある。JAZZの世界とはそういうもので、陽の目をみない割に卓越した演奏を奏でるミュージシャンというのはごまんといるものだ。

今日演奏したピアノトリオも然り。ご多分に洩れず指先から離れた美しい旋律は、およそ満員とはいえぬ客席を漂いながら透明に消えゆく音符を零していった。

そんな明日を掴みきれていない孤高の音楽家に、若者が矢継ぎ早に質問をしている。店のアルバイトである彼もまた、ほんのひと雫の輝きに魅了されてプロを目指すというのだ。孤高の音楽家は彼にこう告げた。「まず良い楽器を買いなさい」と。

 

 

カーラヂオからユーミンの「コバルトアワー」が流れている。これこそプロ中のプロの名演である。細野晴臣が奏でるベースがやけにリズミックでつい口ずさんでしまう。

 

 

 

まだ僕が学生だったころ、デンマークから「ブライアン」という留学生が友人宅に転がり込んだことがあった。まあ留学生というのは噓で本当はもう社会人だったのだが、日本が好きすぎて再び来てしまったのだという。

ブライアンはデンマーク人のくせに身長が175cmくらいで彼曰く「僕は女の子より小さくて恥ずかしいよ」と話してくれた。もちろん日本語である。なんと彼は7か国語を話せたのだ。

デンマーク人男性の身長はだいたい2mくらい、女性でも180cmくらいが普通だという。そうなると確かにブライアンは小柄であった。そのブライアンが初めて日本の地に足を踏み入れたとき「この国は子どもしかいないのか?」と思ったという。まことに真理である。

デンマークと言えばチーズの生産で有名だが、ブライアンはチーズが大嫌いだった。チーズバーガーなんてこの世からなくなればいいとまで言い切った。ただ納豆は大好きだという。日本びいきにもほどがある。

ブライアンは当時「漢字」を勉強していたのだが、僕らは面白がって当て字を教えてあげたりした。彼の名前は「ブライアン イエセン」というのだが、「無雷暗 家千」と、わざわざ筆で半紙に書いてあげた。なんとも小学生並みの知能で申し訳なかったが、ブライアンは大喜びであった。

デンマークでは煙草が高騰していて円換算すると一箱1500円くらいだという。ブライアンは煙草に火を点けて2回くらい吸ったあと丁寧に消してその煙草を箱に戻していた。デンマークでは普通の習慣だそうだ。そんなブライアンに僕らは「日本ではそれを”シケモク”って言うんだよ」と教えてあげたりした。それでもブライアンはその”シケモク”を止めることはなかった。

そんなブライアンのいる生活が2週間くらい経ったある日、ブライアンが「そろそろ次の国に行こうと思う」と言った。いよいよ新天地へと旅立つことになったのだ。僕らは彼に日本のお土産をいっぱいあげた。彼は大変喜んでくれた。僕らは「デンマークの友だちには、なにかお土産は持っていかないのか?」と聞いてみた。ブライアンは「お土産は自分に買うものであって人からもらうものではないよ」と言う。「友だちも日本に来ればいいだけだよ」と言う。文化の違いでもあるだろうけど、これはブライアンが常日頃考えていることらしい。「僕は日本でいう”さようなら”は言わないよ だっていつだって会うことができるじゃない たとえどんなに離れていても本当に会いたかったら会いに行けばいいんだよ そんなの簡単なことだよ」そう言って、ブライアンは次の国へと旅立っていった。さよならも言わずに。

 

 

今日をもってアルバイトがひとり、大学を卒業して辞めていった。就職したのである。とても名残惜しそうにしていたけれど、僕は”さよなら”をいうことはない。本当に会いたければ、会いに行けばいいだけなのだから。

 

プロを目指すアルバイトくんも広い世界へどんどん出て行くべきなのだ。本物に会いに行けばいい。孤高の音楽家もそうやって夢だった未来を手繰り寄せている。

そう。夢をみるだけなら誰だってできる。会いにいった瞬間から夢は現実に変わってゆくのだ。

 

 

 

カーラヂオからは八神純子さんの「水色の雨」が流れている。

もう夜が明けそうなのに、なんともエキゾチックなサンバが軽快だ。次の角を曲がれば、自宅はもうそこにある。

「祝う」という生き方

つけっぱなしのラヂオからタレント予報士のかわいい声が聞こえている。桜の開花宣言が一日早いとか遅いとか、でも外はそんなに暖かくなくって、クリーニングに出そうと思っていたコートをまた引っ張りだすという始末。「予感」とやらに僕は油断してしまったらしい。

 

今日は結婚式2次会のパーティー営業だった。ひとりで40人分の料理を作り、そして提供する。アルバイトがお酒を提供してくれるのだが、料理はひとりでやるしかない。大きな予約は嬉しいのだが「ひとりっきり」というそこは個人店のツライところでもある。

昨日は送別会、一昨日も送別会のパーティー営業だった。ここのところまともな休みが取れていない。外注すれば済むのに何故かカルパチョにする魚を1枚1枚手切りで100枚、200枚と揃え、おかげで手首と背筋がゴリゴリに凝っている。そんなことばかりしている。

 

深夜3時。片付けを終え外に出ると、まだ雨はしくしくとアスファルトを濡らしていた。壊れたビニール傘をさしながら駐車場へ向かう。少しだけ土の匂いが鼻をくすぐって「そういえば」と、昼間流れていた開花宣言のニュースを思いだす。桜はまだ咲いてはいない。

駐車場には主の帰りを待っていたであろう雑巾のような車がぽつんと佇んでいる。12月に洗車機で洗ったきりの薄汚れた車だ。僕は疲れた体でありながら、振り払うよう颯爽と車に乗り込みエンジンをかけた。

 

カーラヂオからは日曜の夜だというのに、無駄に元気なパーソナリティーが何やらまくしたてている。ボリュームを少しだけ絞り、ぼんやりと運転をする。

 

 

 

いままで人を祝ってばかりの人生だった。

結婚して子どももいるが、クリスマスも誕生日もずっと父親として参加することはなかった。日曜日は常に仕事だからだ。息子の誕生日であっても当然のように仕事が優先される。自分の子どもよりもまず先に、他人のクリスマスや誕生日をせっせとお祝いしてあげる。それが僕の仕事なのだ。入学式、運動会、卒業式。全く無縁である。「〇〇ちゃんの家は母子家庭なの?」と近所では評判だったらしい。レストランで働く僕の帰りは早くても0時過ぎであり、近所の子どもが僕の姿をみる事はなかったのだろう。妻は笑いながら話してくれて、僕は大笑いした。心はひゅんと冷たくなったけれど。

思えば僕の父親は公務員であり常に家にいた。囲碁が趣味のため本当に家から一歩も外に出ることがない人だった。そんな僕の小さいころはクリスマスも誕生日もだいたいケーキがあったし、プレゼントだって買ってもらっていた。そこに親の愛があったかどうかなんてわからないけれど、平凡な家庭だからこそ平均的な幸せに満ちていたのだろうと今なら容易に気付くことができる。ただ毎年繰り返される儀式のような記念日とかケーキとかプレゼントだとか、果ては杓子定規な父親の姿とかが当時の僕は嫌でたまらなく、公務員とは真逆の料理人という日銭を稼ぐ安定しない職業に憧れていたのだ。

サービス業、主にレストランなど飲食業の人は土日祝の休日は稼ぎ時であるため必然的に休むことはありえない。休みは平日に取得するわけで、これはこれで映画館は空いているし車の渋滞もなく快適だったりするので、そうそう悪いことばかりではない。ただ家庭を持つと、子どもと一緒にいる時間があまり取れないという現実に直面する。それが子どもにとって悪影響なのかどうなのか全くわからないけれど、親として少々引け目に感じて止まないのである。決して育児放棄なわけではないけれど、どうにも生活時間帯がズレてしまうのだ。それでいて子どもの誕生日すら一緒にいられない父親が、全く他人の誕生日ケーキなどを一生懸命作って「おめでとうございます」などと抜かしている。本当間抜けな話である。

それでも、その人の大切な記念日はその日しかなくって、変えることなんてできなくって、その大切な時間を自分に託してもらっていると思えばこんな嬉しい気持ちは他では味わえない。「今日は美味しかったです、ありがとうございました」などと言われた日には、疲れなど簡単に吹き飛んでしまったりする。なんとも単純極まりない職業なのである。

 

 

息子はすでに大学生である。妻の教育がよかったのだろう、真っ直ぐな性格で良い子に育っている。親バカだ。父親がほとんど家に居なくても子は育つのである。妻には感謝しかない。そんな息子とは、親子の会話がほとんどない。幼少期に触れ合ってないせいもあり、どこか遠慮があるのだろう。と思う。いや僕の主観であって、自分でどう接してよいかわからないのが一番の原因だろう。こんな父親をみてどう思うのだろうか。きっと若かりし頃の僕のように、真逆の公務員を目指すのではないかな?などと思って楽しみにしている。

 

 

カーラヂオから、誰のリクエストなのか松田聖子の青いサンゴ礁が流れてきた。現実は深夜であれ、なんだかいい気なものである。「春も行ったり来たりなのに何故この曲?」と曇りはじめたフロントグラスに向かって僕はぼやいている。そのくせ鼻歌交じりなのだ。