さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

ZARDという付箋②組長登場と呪詛の響き

「はい、わかりました」

と言うしかなかった。断れない。。。いや、断れるわけがない。どうやってやるかなんてわからないけど、2200個の弁当を作るしか選択肢がないのだ。

僕は料理人の三浦さんに相談した。

 

「2200個弁当の注文受けたんですけど、応援てホテルに頼めますよね?」

 

三浦さん自身も、いぶし銀の料理人である。弁当作るのに鮭を1本仕入れて下ろすのである。僕なら冷凍の切り身を発注するところだ。三浦さん曰く

「売ってる切り身じゃ全部が同じ大きさにならんじゃろ。尻尾のほうは別のパーティーで使うからええんじゃ」

広島の人である。この三浦さん、なんとサンドイッチのパンも手切りなのだ。1枚1枚単価に合わせて薄さを調整するのだそう。。。雰囲気は「わし、不器用ですから」って言う”健さん”みたいだけど、そりゃあもう、めちゃめちゃ細かい仕事ぶりなのだ。

 

さて、その三浦さん、しばらく考えて

「組長を呼ぼう!」

と言い出した。僕にはさっぱりわからない。とりあえず組長と呼ばれる人は、三浦さんが同じ社内(ホテル)で一番信頼してる料理人だそうで、過去に弁当地獄を何度も経験しているスペシャリストらしいのだ。三浦さんが直接電話をしてくれるという。

 

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そして、その日の夕方に、事情を知った組長から直接電話がかかってきた。

「弁当2200か!えれえもん受けたなぁ!まぁ何とかしてやっから食材だけ揃えておきな!」

江戸っ子である。べらんめえ口調で脳内変換して欲しい。組長からの電話は

①当日は0時からスタート、余裕をもって8時には全部終わらせる(搬出は9時)

②若い衆は連れていくので心配しないでよい。

③常にコーヒーを飲める状態にして、音楽を切らさないこと。

であった。いたってシンプル。2200個の弁当を8時間で作る(人の手だけで)が可能なのかどうなのかさっぱりわからないけど、ここは組長を信頼するしかない。当日までまだ日があるのに、すでに胃が痛い。とにかく弁当箱や割り箸、バラン(緑色の草の形した飾り)など備品の発注と、食材(なんでも2200個分の鮭を手で切ると料理バカの三浦さんが言っている)の仕入れを100回くらい確認して、ようやく注文したのだった。

 

 

さて当日。

そう、その日は普通に営業をしていたのだ。昼間は会議室にコーヒーを出し、弁当を出し、夕方18時まで営業をした。もう胃に穴があくというのはこのことだろうと思うほど、キリキリとした状態が続いている。その日は施設自体も明日の大ホールの準備に追われるので夕方で閉館だった。明日執り行われるのはなんと日産の入社式だったのだ。弁当2200個とは新入社員の昼ご飯なのだ。18時で営業を終えた僕は、一旦自宅に帰り風呂に入ってすぐ戻ってきた。三浦さんは鮭を切っていた(このあと唐揚げの鶏肉も2200人分切るらしい。死ぬぞ?この人!)

そんな三浦さんを尻目に、僕は組長を迎える準備に取り掛かった。

CDラジカセをおもむろに取り出し、準備したのはZARDのベストアルバム!当時出たばかりのシングルコレクション14曲入りだ。「負けないで」なんてピッタリなんじゃないの?この状態に。。。なんて、この時点ではまだ軽く考えていた僕だった。

 

いよいよ23時。組長の登場である。

 

テーマ曲がないだけで、白髪頭で角刈りというそのいで立ちは、任侠モノの映画からそのまま出て来た人だった。若い衆(手下の料理人)からも「組長」と呼ばれていて、もはや完全に極道なのである。

そして、お付きの若い衆はなんと7人だった。こっちで集めた5人と組長を合わせても13人。2200個を13人である。噓でしょ。。。である。

 

真っ青の僕は何分呆然としていたのだろう。。。

 

組長は真っ白なコックコートに着替えて再び登場していた。組長は、ありったけのテーブルを並べた会議室を見渡して仁王立ちのままべらんめえ口調で開口一番

 

「3回に分けるか。。。こりゃあ800、800、600の3回戦だな」

 

と言い切ったのだ。

僕は唾をゴクリと飲みこんでいた。

 

 

【続く③今日の朝は、二度とない朝】

 

 

ZARDという付箋①レストランの立ち上げ。

ZARDの曲が突然カーラヂオから流れてきた。

ラヂオの良いところは予想だにしない曲が不意に流れてくるところだろう。何故なら僕の中でZARDとは、自ら聴くことのないアーティストのひとつなのだから。車を運転しながら僕は、20年前の今日の日の激動を想って苦笑していた。

 

30歳になったばかりの僕は、レストランの立ち上げメンバーとしてリゾートホテルから出向することになり、2200人収容できる大ホールを併設した財団の施設へ向かっていた。

いま考えても地獄のような会社である。「これで何とかしなさい」と、当時の社長に現金50万円が入った封筒だけ渡されたのだ。まるで計画がないのである。居抜き物件なので、前の経営者が置いていった食器などはあるけれど、それを見てできるものを考えてやれということなのである。

とりあえず50万円のうち半分使って食材を仕入れ、営業を始めてみた。

そこは大きなホール(2200人収容)と小ホール(300人程度収容)があり、その他会議室などが7Fまであるナンチャラ会館という施設で、会議室利用者に出す仕出し弁当やコーヒーなど作りながらレストランを運営するという基本スタイル。とにかく仕入れた食材を上手に使いながら日々の売上をなんとか現金で稼がなくてはならないのだ。「てるみくらぶ」も真っ青の自転車操業である。

実際、県庁の近くということもあって県の職員に多く利用されるのだがみんな「売掛」で清算をしようとする。正直「殺す気か!」なのである。こっちは手持ちの現金と日々の売上が無ければ食材すら仕入れられないのである(始めたばかりで信用がまだないので業者に対して現金でしか仕入れられない)今日の売上で明日の支払いをするのだ。本社からは一切の援助はない。プラスになった売上を入金するだけで、なんとか上手いことやれのスタイルを断固として貫いてくるのだ。ぞっとするほど立派である。

 

 

ところがどうして営業開始してから3ヶ月目には黒字化できたのである。自分は神かと思ったけれど、もともと企業の会議室利用やレセプションなどが多く、仕出し弁当の注文(1500円の弁当50個くれとかザラにある)コーヒーを会議室へ提供する出前注文80人分(1杯400円という高額設定にも関わらず馬鹿みたいに注文する)とか毎日あるのだ。ウハウハである。

レストラン自体には客がさっぱり来ないのだが、出前注文だけやってればロスもほとんどなく儲かって仕方がないのだ。

後でわかったのだが、財団の職員がうちの店を優先して斡旋してくれることで他に頼めない状況を作り出していてくれたらしい。そんなカラクリがなきゃ無理だよね。

 

 

 

そんなこんなで初めての春がもうそこまで近づいてきた3月の初め、僕は財団から1本の内線を受けることになる。それは日産という大企業からの桁外れな注文で、当時僕と、もうひとりの料理人1名、アルバイト1名ではとても太刀打ちできない代物なのであった。

 

「4月にこの大ホールを日産で使うのですが、その日に1000円のお弁当をお願いしたいんですよ。。。えぇ、2200個です」

 

 

 

 

 

【続く②組長登場と呪詛の響き】

携帯がない時代、人には糸電話があった。

高校生だったころ(もう30年以上も前の話だ)用事があって友だちの家に電話をした。文化祭の代休とかで平日の昼間。。。たしか月曜日だったと思う。夜に文化祭の打ち上げをどうする?とか、そんな他愛のない話だったような、うろ覚えな記憶ではあるけれど。

電話はおじさんが出て、「注文じゃないなら後にしてくれるか!」とこっ酷く叱られた。。。そう、友だちの家はラーメン屋で、店の裏にある高校の先生方からよく出前の注文が入るのだ。想像力の働かなかった僕は一瞬ムッとしたのだけれど、よく考えれば店の死活問題だったんだなあと気づかされた。

もちろん普段おじさんは優しい人で、ちょっと江戸っ子が入った気風のいい人だった。あとで電話すると「さっきは悪かったねえ」などと謝ってくれた。想像する大切さを気づかされた最初の出来事かも知れない。

 

 

そのころの電話といえば、ダイヤル式が廃れてプッシュホンが普及してきた時代。コードレスホンとかあったのかな?もしあったとしてもブルジョワな家庭にしかなかっただろう。電話を持ちながら、わざと長いコードを引っ張って会話する光景がよくTVドラマで取り上げられていた。トレンディドラマの始まりである。

 

昭和あるあるで言えば、夜に彼女へ電話する(今では考えられないが、当時家にはひとつしか電話がなかったのだ)ということは、その家の家長であるお父さんが電話に出る可能性があって、それはもうひどく緊張したものだった。頭のいいやつ(たかが知れているが)が考えた「1コールで切って、再度かけ直すルール」を僕らはすぐに取り入れた。それからはみんな安心して夜に長電話をしたものだった。お母さんに怒られるまで。ただ、親になってみればそんなの全部お見通しなわけで、あぁ全部知ってて黙ってたんだな。。。と恥ずかしくなったり。

 

不便な時代である。不便だからみんな無い知恵を絞って面白いことを考える。当時カメラは高価なもので家に一台しかない代物だった。修学旅行とやらで親にお願いして借りるのが関の山である。もはや彼女と記念写真を撮るためにカメラを持ち出すなんてことはハードルが高すぎた。万が一カメラがあったとしても、それを現像に出して写真屋さんに見られるのもなんとなく恥ずかしかった。あぁなんたる純粋な高校生。。。

そして僕ら高校生は証明写真のBOXを利用することを思いついた。いや、たかが頭のいいやつが編み出したのだ。彼女とふたり、あの狭い空間に入ってボタンを押す。お金はないからケチって白黒のやつだ。チューする強者もいた。僕だった。あぁなんたる不純な高校生。

 

他人の目を気にしながらBOXの外で写真ができるのを待つ時間。これ以上幸せな青春という時間があっただろうか。出来あがった4枚綴りの細長い写真を手でちぎってふたりでにっこりした。

 

プリクラの原型である。

 

 

 

携帯のない時代の待ち合わせは奇蹟である。

僕は彼女と過ごす初めてのクリスマスのために、アルバイトで貯めたお金で珊瑚のネックレスとイアリングを用意していた。その日一日を何度も何度もシュミレーションしていた僕は、待ち合わせの駅へ13時に着いた。もちろん約束は14時である。

駅のホームの一番端っこで、僕はもう一度デートコースを復習していた。いや、復習するほどでもない。歩いて公園へ行き、散策して、デパートのレストランへ行くだけだ。30年前の16歳なんてそんなものである。言っておくが当時ディズニーランドはまだ建設中であった。「笑っていいとも」の放送が始まる1年前である。

14時過ぎ。なかなか来ない電車がようやく到着した。遅れていた電車から人がぽろぽろと零れだした。ただ、目を凝らして彼女を探す僕はがっかりする。約束の電車に乗っていないのだ。次の電車は20分後。僕は気を取り直して待つことにした。遅刻魔だった彼女が電車1本遅れるくらい想定内だったと自分に言い聞かせて。(過去に彼女は一度も約束の時間に遅れたことなどなかった)

 

次の電車にも彼女の姿はなかった。

 

真っ直ぐなホームである。乗客がひととおり通り過ぎたあとは、見渡す限り車掌さんしかホームに残っていない。

 

駅の改札まで急いで走っていって確認する僕。彼女はいない。

 

急いでホームに戻る僕。時間はすでに16時を回っている。21世紀の今、こんなに待っていたら馬鹿の極みである。それでもただ待つしかないのである。

 

駅のホームからみえる街並みに、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めた。冬なので陽が落ちるのが早いのだ。ラッシュが近くなり電車の本数が多くなる。それでも、それでも彼女は来ない。17時である。計画は台無しである。ただそれ以上に彼女が心配なのだ。

 

「きっと何かあったに違いない」

 

僕は彼女を心配するしかなく、ただひたすら彼女の事を考えていた。

 

 

次の電車に乗っていなかったら帰ろうと、僕は心に決めていた。

電車から降りる人込みのなか、とうとう僕は彼女を見つけることができなかった。

 

 

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あろうことか僕は次の電車も待っていた。往生際が悪い事この上ないのである。

 

次の電車から、彼女は降りてきた。忘れもしない、時計の針は18:40を回っていた。

 

 

彼女はいつもの笑顔で「ごめんね」と言った。

僕は嬉しくて嬉しくて、「まずトイレに行ってもいいかな」と彼女に言った。

 

 

 

 

膀胱が破裂寸前だった僕はなんとか一命をとりとめ、そんな僕に彼女は事の顛末を話してくれた。彼女は約束の電車に乗っていたのだ。

遅れた原因は彼女のせいではなかった(もちろん遅刻した?などと僕は微塵も思ってはいない)彼女の隣にいた乗客が急に具合悪くなって倒れてしまったという。彼女は周りの乗客の助けを借りて具合悪くなった人を一旦ホームへ。駆け付けた職員さんに「あなたも一緒に病院までお願いします」と言われ、お人好しな彼女は結局病院まで付き合わされる羽目になったそうだ。

具合悪くなった人は持病を持っていたそうなのだが、特に大事になることもなく小一時間ほどで回復したそうで、その間、見知らぬ人だというのに彼女は処置室の廊下でずっと待っていてあげたそうだ。お人好しにもほどがあると思う。

 

その後急いで電車に乗って彼女はやってきた。およそ4時間半(彼女は知らないが僕は1時間前に待っていたので5時間半)彼女は僕が必ず待っていると信じていたという。当たり前田は大リーガーである。

 

 

僕だって、

僕だって彼女が来ることしか考えていなかった。糸は繋がっていたのだ。

 

 

慮る大切さ。信じる勇気。不便だった時代、僕らはいろんな思いを巡らして毎日を過ごしていた。今は待ち合わせなどしなくても大体の場所でLINEすればいいし、そもそも「ゴメン!人が倒れたからちょっと病院付き添うから」とかLINEすれば、夕暮れの空が黄昏てゆくのをぼんやり見つめなくてもいいのである。いい時代だ。それでも、あの数時間の間に僕はいろんなことを考えたし、きっと自分には大切な時間だったと思えるのだ。

 

その彼女とは高校卒業とともに疎遠になり、ラーメン屋のおじさんも数年前に亡くなってしまった。

それでも、

それでも、もし、まだ繋がっているのなら、

ピンと張った糸に繋がれた紙コップに向かって、そっと冗談を言ってみたい。

 

 

出会った瞬間から別れのカウントダウンは始まっている。

看護師さんの送別会だった。

30名ほどの看護師さんが一堂に会し、酒を飲む。辞めてゆく女性は語学留学のため渡米するようだ。同僚たちはそれぞれ声をかけ、笑いながら涙ぐんでいた。7年間在籍したという。それはそれは積もる話もあっただろう。お店の計らいで(とはいってもピアニストにお願いした僕の計らいなのだが)ピアノの生演奏をプレゼントした。かなり酔っているのか気持ちよくなってしまったのか、看護師たちは皆で合唱して別れを惜しんでいた。久しぶりにいいパーティーに巡り合えたと思う。

 

 

深夜2時を回るとだいたいの幹線道路は空いていて、油断しているとだいぶスピードに乗ってしまう。東北自動車道と並走する国道122号線をいつも使っているのだが、浦和から岩槻にかけて信号がないまま5kmほど真っ直ぐな道があって、街灯が飛ぶようにバックミラーに映るときは要注意なのである。

今日のラヂオパーソナリティーは名も知らぬアイドルユニットのようで「はい!〇〇です!はい!△△です!、はい!それでは~」と、やけに話し始めるときの「はい!」が気になってしまった。僕は少しだけボリュームを絞ってハンドルを握りなおした。

 

 

最近売れっコの女性タレントではないが、およそ35億の女性がいて35億の男性がいて、当然性別にとらわれない方もいらっしゃるけれど、ひっくるめてこの地球上に世界人口としていま70億人ほど人間が存在しているらしい。

 

一生のうち、直接出会う人は何人くらいいるのだろう。小学校中学校、高校や大学など社会に出るまですれ違うだけの人も含めたら2000人?3000人?はいるだろうか?直接話しをした人に限定すれば、100人単位まで絞られることだろう。社会人になり、もしも職業に教師など選べば一学年200~300人前後の人と毎年のように出会ったりするけれど、深く関わり合う人となるとそうは多くないはずだ。

つまり出会いは偶然や奇蹟ではない。人は出会うべくして出会うはずの必然だと僕は思っている。どう考えても一生のうち70億と触れ合うことはできないし、日本国内であってもその大多数に出会うことなど皆無なはずだ。間違いなく人との出会いには意味がある。もしもその出会いが偶然だったとしても、それを必然に変えることができるなら生きてゆくうえの指標になり得るかもしれない。

 

そしてそんな大切な出会いであっても、必ず別れはやってくる。

 

卒業、転勤、恋人との別れもあるし、死別もまたつらい別れである。

そして、その多くの別れは出会った瞬間から見えないカウントダウンが始まっていて、人にはその数字がいつゼロになるかわからないのである。昨日まで会話していた人が突然事故で亡くなることだってあるのだ。

一期一会に通じるところがあるけれど、明日ゼロになるかも知れぬカウントは毎日確実に進んでいて、だからこそ出会った人とは真剣に向き合うことが必要なのである。

もうずいぶん長いこと飲食店の店長という仕事をやってきたけれど、卒業や就職、転職、海外留学など、それぞれのステージに向かってゆくアルバイトくんたちを、僕は常に世へ送り出してきた。とんでもないことに、高校1年生で採用して大学卒業するまで7年間毎日のように顔を合わせていたアルバイトもいた。15歳から22歳の多感な時期に勉強以外の社会を教えるようなものである。親子並みの感情があってもおかしくないだろう。大学卒業のときは嬉しくて寂しくて泣けてきたものだ。

とはいえ今まで出会ってきた10代に「社会はこうだ!」「大人とはこういうものだ!」などと恩着せがましく論破することなどせず、僕は自分の経験談を話すのが常であったし好きでもあった。もしもこの子が社会に出て壁にぶつかったとき「あのとき店長はこんなこと言っていたなぁ」などと思いだしてくれたら、それで十分なのである。そんな記憶に残る人になることを僕は目標にしているし、そんな人でありたいなぁと常日頃思っている。そう、毎日だ。何故なら明日にでもそのカウントはゼロになるかもしれないのだから。

 

 

気がつけばラヂオはいつものメインパーソナリティーに戻っていて、とぼけたジョークを飛ばしながら夜を着々と進めている。直接は会ってないけれど、声だけの人でも記憶に残る人はいる。「一度に何千人、何万人の人の記憶に残るってうらやましい」などと思いながら、僕は国道16号線をひたすら走っている。

 

 

会いたいのなら会いに行け

JAZZの生演奏。売れているには程遠い、けれどいっぱしの演奏は目を見張るものがある。JAZZの世界とはそういうもので、陽の目をみない割に卓越した演奏を奏でるミュージシャンというのはごまんといるものだ。

今日演奏したピアノトリオも然り。ご多分に洩れず指先から離れた美しい旋律は、およそ満員とはいえぬ客席を漂いながら透明に消えゆく音符を零していった。

そんな明日を掴みきれていない孤高の音楽家に、若者が矢継ぎ早に質問をしている。店のアルバイトである彼もまた、ほんのひと雫の輝きに魅了されてプロを目指すというのだ。孤高の音楽家は彼にこう告げた。「まず良い楽器を買いなさい」と。

 

 

カーラヂオからユーミンの「コバルトアワー」が流れている。これこそプロ中のプロの名演である。細野晴臣が奏でるベースがやけにリズミックでつい口ずさんでしまう。

 

 

 

まだ僕が学生だったころ、デンマークから「ブライアン」という留学生が友人宅に転がり込んだことがあった。まあ留学生というのは噓で本当はもう社会人だったのだが、日本が好きすぎて再び来てしまったのだという。

ブライアンはデンマーク人のくせに身長が175cmくらいで彼曰く「僕は女の子より小さくて恥ずかしいよ」と話してくれた。もちろん日本語である。なんと彼は7か国語を話せたのだ。

デンマーク人男性の身長はだいたい2mくらい、女性でも180cmくらいが普通だという。そうなると確かにブライアンは小柄であった。そのブライアンが初めて日本の地に足を踏み入れたとき「この国は子どもしかいないのか?」と思ったという。まことに真理である。

デンマークと言えばチーズの生産で有名だが、ブライアンはチーズが大嫌いだった。チーズバーガーなんてこの世からなくなればいいとまで言い切った。ただ納豆は大好きだという。日本びいきにもほどがある。

ブライアンは当時「漢字」を勉強していたのだが、僕らは面白がって当て字を教えてあげたりした。彼の名前は「ブライアン イエセン」というのだが、「無雷暗 家千」と、わざわざ筆で半紙に書いてあげた。なんとも小学生並みの知能で申し訳なかったが、ブライアンは大喜びであった。

デンマークでは煙草が高騰していて円換算すると一箱1500円くらいだという。ブライアンは煙草に火を点けて2回くらい吸ったあと丁寧に消してその煙草を箱に戻していた。デンマークでは普通の習慣だそうだ。そんなブライアンに僕らは「日本ではそれを”シケモク”って言うんだよ」と教えてあげたりした。それでもブライアンはその”シケモク”を止めることはなかった。

そんなブライアンのいる生活が2週間くらい経ったある日、ブライアンが「そろそろ次の国に行こうと思う」と言った。いよいよ新天地へと旅立つことになったのだ。僕らは彼に日本のお土産をいっぱいあげた。彼は大変喜んでくれた。僕らは「デンマークの友だちには、なにかお土産は持っていかないのか?」と聞いてみた。ブライアンは「お土産は自分に買うものであって人からもらうものではないよ」と言う。「友だちも日本に来ればいいだけだよ」と言う。文化の違いでもあるだろうけど、これはブライアンが常日頃考えていることらしい。「僕は日本でいう”さようなら”は言わないよ だっていつだって会うことができるじゃない たとえどんなに離れていても本当に会いたかったら会いに行けばいいんだよ そんなの簡単なことだよ」そう言って、ブライアンは次の国へと旅立っていった。さよならも言わずに。

 

 

今日をもってアルバイトがひとり、大学を卒業して辞めていった。就職したのである。とても名残惜しそうにしていたけれど、僕は”さよなら”をいうことはない。本当に会いたければ、会いに行けばいいだけなのだから。

 

プロを目指すアルバイトくんも広い世界へどんどん出て行くべきなのだ。本物に会いに行けばいい。孤高の音楽家もそうやって夢だった未来を手繰り寄せている。

そう。夢をみるだけなら誰だってできる。会いにいった瞬間から夢は現実に変わってゆくのだ。

 

 

 

カーラヂオからは八神純子さんの「水色の雨」が流れている。

もう夜が明けそうなのに、なんともエキゾチックなサンバが軽快だ。次の角を曲がれば、自宅はもうそこにある。

「祝う」という生き方

つけっぱなしのラヂオからタレント予報士のかわいい声が聞こえている。桜の開花宣言が一日早いとか遅いとか、でも外はそんなに暖かくなくって、クリーニングに出そうと思っていたコートをまた引っ張りだすという始末。「予感」とやらに僕は油断してしまったらしい。

 

今日は結婚式2次会のパーティー営業だった。ひとりで40人分の料理を作り、そして提供する。アルバイトがお酒を提供してくれるのだが、料理はひとりでやるしかない。大きな予約は嬉しいのだが「ひとりっきり」というそこは個人店のツライところでもある。

昨日は送別会、一昨日も送別会のパーティー営業だった。ここのところまともな休みが取れていない。外注すれば済むのに何故かカルパチョにする魚を1枚1枚手切りで100枚、200枚と揃え、おかげで手首と背筋がゴリゴリに凝っている。そんなことばかりしている。

 

深夜3時。片付けを終え外に出ると、まだ雨はしくしくとアスファルトを濡らしていた。壊れたビニール傘をさしながら駐車場へ向かう。少しだけ土の匂いが鼻をくすぐって「そういえば」と、昼間流れていた開花宣言のニュースを思いだす。桜はまだ咲いてはいない。

駐車場には主の帰りを待っていたであろう雑巾のような車がぽつんと佇んでいる。12月に洗車機で洗ったきりの薄汚れた車だ。僕は疲れた体でありながら、振り払うよう颯爽と車に乗り込みエンジンをかけた。

 

カーラヂオからは日曜の夜だというのに、無駄に元気なパーソナリティーが何やらまくしたてている。ボリュームを少しだけ絞り、ぼんやりと運転をする。

 

 

 

いままで人を祝ってばかりの人生だった。

結婚して子どももいるが、クリスマスも誕生日もずっと父親として参加することはなかった。日曜日は常に仕事だからだ。息子の誕生日であっても当然のように仕事が優先される。自分の子どもよりもまず先に、他人のクリスマスや誕生日をせっせとお祝いしてあげる。それが僕の仕事なのだ。入学式、運動会、卒業式。全く無縁である。「〇〇ちゃんの家は母子家庭なの?」と近所では評判だったらしい。レストランで働く僕の帰りは早くても0時過ぎであり、近所の子どもが僕の姿をみる事はなかったのだろう。妻は笑いながら話してくれて、僕は大笑いした。心はひゅんと冷たくなったけれど。

思えば僕の父親は公務員であり常に家にいた。囲碁が趣味のため本当に家から一歩も外に出ることがない人だった。そんな僕の小さいころはクリスマスも誕生日もだいたいケーキがあったし、プレゼントだって買ってもらっていた。そこに親の愛があったかどうかなんてわからないけれど、平凡な家庭だからこそ平均的な幸せに満ちていたのだろうと今なら容易に気付くことができる。ただ毎年繰り返される儀式のような記念日とかケーキとかプレゼントだとか、果ては杓子定規な父親の姿とかが当時の僕は嫌でたまらなく、公務員とは真逆の料理人という日銭を稼ぐ安定しない職業に憧れていたのだ。

サービス業、主にレストランなど飲食業の人は土日祝の休日は稼ぎ時であるため必然的に休むことはありえない。休みは平日に取得するわけで、これはこれで映画館は空いているし車の渋滞もなく快適だったりするので、そうそう悪いことばかりではない。ただ家庭を持つと、子どもと一緒にいる時間があまり取れないという現実に直面する。それが子どもにとって悪影響なのかどうなのか全くわからないけれど、親として少々引け目に感じて止まないのである。決して育児放棄なわけではないけれど、どうにも生活時間帯がズレてしまうのだ。それでいて子どもの誕生日すら一緒にいられない父親が、全く他人の誕生日ケーキなどを一生懸命作って「おめでとうございます」などと抜かしている。本当間抜けな話である。

それでも、その人の大切な記念日はその日しかなくって、変えることなんてできなくって、その大切な時間を自分に託してもらっていると思えばこんな嬉しい気持ちは他では味わえない。「今日は美味しかったです、ありがとうございました」などと言われた日には、疲れなど簡単に吹き飛んでしまったりする。なんとも単純極まりない職業なのである。

 

 

息子はすでに大学生である。妻の教育がよかったのだろう、真っ直ぐな性格で良い子に育っている。親バカだ。父親がほとんど家に居なくても子は育つのである。妻には感謝しかない。そんな息子とは、親子の会話がほとんどない。幼少期に触れ合ってないせいもあり、どこか遠慮があるのだろう。と思う。いや僕の主観であって、自分でどう接してよいかわからないのが一番の原因だろう。こんな父親をみてどう思うのだろうか。きっと若かりし頃の僕のように、真逆の公務員を目指すのではないかな?などと思って楽しみにしている。

 

 

カーラヂオから、誰のリクエストなのか松田聖子の青いサンゴ礁が流れてきた。現実は深夜であれ、なんだかいい気なものである。「春も行ったり来たりなのに何故この曲?」と曇りはじめたフロントグラスに向かって僕はぼやいている。そのくせ鼻歌交じりなのだ。

 

 

辻村深月さんを深読み「名前探しの放課後」徹底考察&相関図

名前探しの放課後』再読しました。

 

今回は深く読み込んだ事情も含めてじっくりとこの作品を考察してみたいと思います。

以後かなりなネタバレなので、もう絶対知りたくない人は読まないでね。

 

この『名前探しの放課後』は上下巻約850頁にも及ぶ大作で、真剣に読んだら7~8時間かかると思われる。

で、この物語は辻村さんの著作『ぼくのメジャースプーン』で活躍した小学生たちがそっくりそのまま高校生となって活躍している作品。

いわゆる別作品と登場人物がリンクしてるっていうより姉妹本といってもいいくらいの関係で、もちろん<姉妹本>とか<登場人物が一緒です>とか書いてあるわけじゃないんだけど(そんな野暮なことはしないか)注意深く読むと・・・・・

 

 

 


まず『天木敬』登場の場面(名前探し㊤125P~126P)サッカー部の活動も手を抜かない文武両道のお手本、教師の信頼も厚く自分たちの代ナンバー1だという記述があり、これは『ぼくのメジャースプーン』(76P)タカシはサッカーがすごくうまくて、女子からモテる。という記述と符合し、天木敬=タカシで間違いないだろう。


その天木と秀人は小学校以来の親友(名前探し㊤125P)ということなので、秀人も<ぼくメジャ>関係者と推察される。

また、秀人の彼女である『椿』は、小学校からピアノと習字そして短歌を習っているという記述と(名前探し㊤389P)『ぼくのメジャースプーン』でヒロインだった『ふみちゃん』の習字、ピアノ、公文、生け花と短歌を習っていたこともあるという記述と符合(ぼくメジャ17P)するので・・・つまり、椿さん=ふみちゃんではないか?

更にもしも彼女がふみちゃんだったら、秀人=ぼくではないのか?と怪しげな雰囲気に辿り着ける。(ぼくのメジャースプーンの主人公は<ぼく>としか記されていない)
まーこの<椿=ふみちゃん><秀人=ぼく>というネタバレはエピローグ(名前探し㊦440P~441P)で明らかになるので、こんなに深読みしなくても充分物語は楽しめるんだけどね。

ただ、秀人=ぼくなのだから<あの力>は重要なファクターになるのだ。
(あの力→条件提示ゲーム能力という呪いの力)

そうなってくると登場人物のなかにいる『ハルくん』が気になる。・・・名前は小瀬友春。
彼は<ぼくメジャ>の『トモ』ではないのか?
よく読むと秀人とハルくんは、大昔に大喧嘩して酷い殴り合いをしたという記述がある(名前探し㊤284P)・・・それってもしかしなくてもあの力を試して二度とふみちゃんと会話できないようにしたあの事件でしょ!(ぼくメジャ358P~数ページ)

当時はトモって呼ばれてたけど、中学生ころから呼び名がハル(友春の下の字のハル)になったという記述がなされている(名前探し㊤403P)
そーなると・・・あぁやっぱり・・・作品中、椿と友春が会話をするシーンはないのだ!

あと本筋にはあんまり関係ないけど、いつかと付き合っていたアヤ・・・豊田綾乃は、ぼくメジャのあーちゃんだと思われますね。

これは確証がないんだけど、同じ小学校だった椿、天木、秀人がこぞって美人と賞賛していたあたり非常に怪しい(笑)なにしろ小学生だったあーちゃんはとてもかわいくTVの生中継取材にも登場するくらいなのだ(ぼくメジャ75P)

このあたりまでが作品に影響を深く与える人たちで、そのほか松永郁也くん、芹沢光(理帆子)と多恵さん(郁也くんのお手伝いさん)という『凍りのくじら』メンバーが出てますね!

郁也くんは同じ高校に籍を置く特待生・・・クリスマスイブパーティーの席でピアノを弾いてくれてますし、ドラえもん好きの一面も見せてます(名前探し㊦242P)

 
クリスマスイブパーティーで写真を撮っている髪の長い美人が理帆子で、そのとき撮った写真は大晦日夜から初詣に行った際あすなからいつかに渡されてますね。

あとは、理帆子の母校F高校は皆の通う藤見高校と思われ、理帆子が通っていた当時有名進学校だったのに、最近はそこそこ進学校になった(多分6年程歳の差があると思われる)を匂わせる記述がされてます(名前探し㊤125P)


ちなみに郁也くんは『ぼくのメジャースプーン』にもちょろっと出てて、ふみ(椿)が嫌がったピアノ発表会で、順番が繰り上がってふみの直前にピアノを披露したのが郁也くん。だから秀人と郁也くんはなんとなく面識があるはず。ふみちゃんも『凍りのくじら』では郁也と同じ<きちんとスラスラお話ができる教室>に通っている。

 

あとはやっぱり秋先生かな。 
秀人と同じ能力(条件提示ゲーム能力)の持ち主。

秀人の親戚の叔父さんでもある。


D大学で教育学部児童心理学科の教授である秋山先生は『子どもたちは夜と遊ぶ』で重要な役柄で登場、『ぼくのメジャースプーン』でも、ぼく=秀人を助ける重要な人物である。

秋先生の登場は12月22日、河野の友春が繁華街であすなに目撃された事件で(名前探し㊦280P)白髪まじりの男性の記述があり、椿が『ごぶさたしてます』と挨拶すると親しげに微笑するくだりや『長尾くんのお父さん?』とあすなが雰囲気が似ていることを指摘、さらに秀人が『昔の恩師』と紹介するところで決定的だ。
ちなみにこの時はこの事件に至った経緯を、秀人は秋先生に報告していないようだ(名前探し㊦440P)

もっと細かく探せばでてくるのかな?<チヨダ・コーキ>の本とか(名前探し㊦147P)
これは『スロウハイツの神様』で活躍する作家チヨダ・コーキの本に夢中になる二人のシーン。

とりあえず本題はストーリーな訳で、でもこの各自の生い立ちや繋がりが微妙に物語の味付けに関わってくる。この『名前探しの放課後』を理解するのには巷でよく言われる『他の作品を読んでからこれを読んで』ということは、まあこーゆうことなんですね。

 

さて、ストーリーは再読するとわかるけど二段構えで、初読のときは素直に騙されて最後に『え~そうだったの』という流れで、登場人物の相互の会話に違和感がありながらも温かい気持ちになるという感じかな(捻くれてなければ)

再読時はあすなをみんなで騙していることを知っているので、登場人物の会話の違和感が何故発生したのかがわかってくると思う。


注意して読むと、あすなとの会話のほとんどが違和感で、付随する他の登場人物の動向に引っ掛かる部分が多すぎる(笑)無限にばら撒かれる伏線なんだけど、勘のいい読者なら要チェックして読んでるところでしょう。この擦れ違いの会話が結果を知っている身としては、涙がでるほどジーンとくるのだ。

それにしても天木のリーダーシップはすばらしいね。ぐいぐいと自分の企てたストーリーに引き込む様子は圧巻!協力する河野の演技力には脱帽ものだけど、他メンバーのさり気ない演技もなかなかだよ。


性格として<頭のいい合理主義>という天木・・・小学生からそうだったよね・・・自分の班にふみちゃんを引き入れて、先生にわからない質問をされたときにも対処しようと企んでいた・・・それがタカシなんだ(ぼくメジャ77P)・・・協力するにあたって対価を求めるあたりが厭らしい(笑)


椿が語る『おおかみ少年』の一節も興味深い挿話・・・読書好きで、読んだ本の内容を必ず現実と結びつけて自分のものにする(ぼくメジャ26P)という姿勢が、嘘をつく少年を責めるのではなく、実は101回目を信じなかった住民の戒めではないかと解くあたり(名前探し㊤202P)・・・聡明さを感じ是ずにはいられない。

 

まぁ一番食えない奴は秀人だけど。

 

さっきストーリーは二段構えって説明したけど、厳密には三段構えとも見て取れますよね・・・だってこの現象を巻き起こしたのは他でもない秀人なんだから。

 

勘の良い天木が再三『お前は冷静すぎる・・・一番のキレ者はお前のはずなのに』なんていうけど、そりゃそうでしょ(笑)タイムスリップという現象で説明したいつかの記憶を操作したのは秀人なんだから。


つまり、いつかが説明したタイムスリップという現象を信じて、あすなの自殺を食い止める演技を皆で一生懸命していた中、秀人だけは最初からタイムスリップではなく

 

『三ヵ月後にいつかの気になっている女の子が死ぬ』

 

ていう<あの力>で歪んだ記憶だということを知っていた訳で、皆の行動をじっくり観察していたに違いないのだ。

 

こんな風に書くと秀人がすごく嫌な奴に映るけど、実際スタートと結末しかわからない秀人は、いつかの相談に必ず乗らなければならなかった訳で、結末に至るまでの過程はやっぱり努力しなければならなかったのだから、やっぱり充実した三ヶ月を過ごしたに違いない。(このあたりはエピローグに秀人が吐露してますねぇ)


ちゃらちゃらしてたいつかの本気度をちょっと試しちゃった結果が一大事だったって事。
想像もしなかったいつかの心を覗いた秀人は素直に感動したんだと思う。秀人はもともと真っ直ぐな心の持ち主だからね。

 

整理すると、河野の自殺を食い止めるっていう努力の過程に友情を感じ、それが本当はあすなを救う手段だったという感動があり、あすなに悟られないようにメンバーが協力してあすなの自殺を食い止める過程での会話の妙(会話のすべてが裏返しの意味を持つ・・・二重の意味合いって感じかな)を感じて心温まるってのと、実は秀人の仕組んだことでタイムスリップでもなんでもなく、いつかが気付かなかったあすなへの想いを確信に導くために、秀人以外のメンバーが踊らされていた妙を感じるところが、この物語の深いところでもあるんじゃないかな。

 

事の顛末をいずれ聞かされる師匠『秋先生』も苦笑でしょう。

 


さて、この舞台になっている富士山の麓、富士吉田(本文中は不二芳)で、フォレストランドはもちろん富士急ハイランド
エピローグにある川は『鐘山の滝』ではないかと連想され、流れ着く池は『忍野八海』と呼ばれる山中湖近辺随一の観光スポットですね。

 

忍野八海の池は透明度が高く深さもかなりある。著者はこの辺りが地元なのだろう・・・山梨県出身としかわからないけど、やっぱり地元感に溢れる描写がすばらしいもんね。

 

この他、地図を辿れば色々発見もあるのだろうけど、それはもっとマニアの方にお任せかな(笑)