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さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

出会った瞬間から別れのカウントダウンは始まっている。

看護士さんの送別会だった。

30名ほどの看護士さんが一堂に会し、酒を飲む。辞めてゆく女性は語学留学のため渡米するようだ。同僚たちはそれぞれ声をかけ、笑いながら涙ぐんでいた。7年間在籍したという。それはそれは積もる話もあっただろう。お店の計らいで(とはいってもピアニストにお願いした僕の計らいなのだが)ピアノの生演奏をプレゼントした。かなり酔っているのか気持ちよくなってしまったのか、看護士たちは皆で合唱して別れを惜しんでいた。久しぶりにいいパーティーに巡り合えたと思う。

 

 

深夜2時を回るとだいたいの幹線道路は空いていて、油断しているとだいぶスピードに乗ってしまう。東北自動車道と並走する国道122号線をいつも使っているのだが、浦和から岩槻にかけて信号がないまま5kmほど真っ直ぐな道があって、街灯が飛ぶようにバックミラーに映るときは要注意なのである。

今日のラヂオパーソナリティーは名も知らぬアイドルユニットのようで「はい!〇〇です!はい!△△です!、はい!それでは~」と、やけに話し始めるときの「はい!」が気になってしまった。僕は少しだけボリュームを絞ってハンドルを握りなおした。

 

 

最近売れっ子の女性芸人ではないが、およそ35億の女性がいて35億の男性がいて、当然性別にとらわれない方もいらっしゃるけれど、ひっくるめてこの地球上に世界人口としていま70億人ほど人間が存在しているらしい。

 

一生のうち、直接出会う人は何人くらいいるのだろう。小学校中学校、高校や大学など社会に出るまですれ違うだけの人も含めたら2000人?3000人?はいるだろうか?直接話しをした人に限定すれば、100人単位まで絞られることだろう。社会人になり、もしも職業に教師など選べば一学年200~300人前後の人と毎年のように出会ったりするけれど、深く関わり合う人となるとそうは多くないはずだ。

つまり出会いは偶然や奇蹟ではない。人は出会うべくして出会うはずの必然だと僕は思っている。どう考えても一生のうち70億と触れ合うことはできないし、日本国内であってもその大多数に出会うことなど皆無なはずだ。間違いなく人との出会いには意味がある。もしもその出会いが偶然だったとしても、それを必然に変えることができるなら生きてゆくうえの指標になり得るかもしれない。

 

そしてそんな大切な出会いであっても、必ず別れはやってくる。

 

卒業、転勤、恋人との別れもあるし、死別もまた辛い別れである。

そして、その多くの別れは出会った瞬間から見えないカウントダウンが始まっていて、人にはその数字がいつゼロになるかわからないのである。昨日まで会話していた人が突然事故で亡くなることだってあるのだ。

一期一会に通じるところがあるけれど、明日ゼロになるかも知れぬカウントは毎日確実に進んでいて、だからこそ出会った人とは真剣に向き合うことが必要なのである。

もうずいぶん長いこと飲食店の店長という仕事をやってきたけれど、卒業や就職、転職、海外留学など、それぞれのステージに向かってゆくアルバイトくんたちを、僕は常に世へ送り出してきた。とんでもないことに、高校1年生で採用して大学卒業するまで7年間毎日のように顔を合わせていたアルバイトもいた。15歳から22歳の多感な時期に勉強以外の社会を教えるようなものである。親子並みの感情があってもおかしくないだろう。大学卒業のときは嬉しくて寂しくて泣けてきたものだ。

とはいえ今まで出会ってきた10代に「社会はこうだ!」「大人とはこういうものだ!」などと恩着せがましく論破することなどせず、僕は自分の経験談を話すのが常であったし好きでもあった。もしもこの子が社会に出て壁にぶつかったとき「あのとき店長はこんなこと言っていたなぁ」などと思いだしてくれたら、それで十分なのである。そんな記憶に残る人になることを僕は目標にしているし、そんな人でありたいなぁと常日頃思っている。そう、毎日だ。何故なら明日にでもそのカウントはゼロになるかも知れないのだから。

 

 

気がつけばラヂオはいつものメインパーソナリティーに戻っていて、とぼけたジョークを飛ばしながら夜を着々と進めている。直接は会ってないけれど、声だけの人でも記憶に残る人はいる。「一度に何千人、何万人の人の記憶に残るって羨ましい」などと思いながら、僕は国道16号線をひたすら走っている。

 

 

会いたいのなら会いに行け

JAZZの生演奏。売れているには程遠い、けれどいっぱしの演奏は目を見張るものがある。JAZZの世界とはそういうもので、陽の目をみない割に卓越した演奏を奏でるミュージシャンというのはごまんといるものだ。

今日演奏したピアノトリオも然り。ご多分に洩れず指先から離れた美しい旋律は、およそ満員とはいえぬ客席を漂いながら透明に消えゆく音符を零していった。

そんな明日を掴みきれていない孤高の音楽家に、若者が矢継ぎ早に質問をしている。店のアルバイトである彼もまた、ほんのひと雫の輝きに魅了されてプロを目指すというのだ。孤高の音楽家は彼にこう告げた。「まず良い楽器を買いなさい」と。

 

 

カーラヂオからユーミンの「コバルトアワー」が流れている。これこそプロ中のプロの名演である。細野晴臣が奏でるベースがやけにリズミックでつい口ずさんでしまう。

 

 

 

まだ僕が学生だったころ、デンマークから「ブライアン」という留学生が友人宅に転がり込んだことがあった。まあ留学生というのは噓で本当はもう社会人だったのだが、日本が好きすぎて再び来てしまったのだという。

ブライアンはデンマーク人のくせに身長が175cmくらいで彼曰く「僕は女の子より小さくて恥ずかしいよ」と話してくれた。もちろん日本語である。なんと彼は7か国語を話せたのだ。

デンマーク人男性の身長はだいたい2mくらい、女性でも180cmくらいが普通だという。そうなると確かにブライアンは小柄であった。そのブライアンが初めて日本の地に足を踏み入れたとき「この国は子どもしかいないのか?」と思ったという。まことに真理である。

デンマークと言えばチーズの生産で有名だが、ブライアンはチーズが大嫌いだった。チーズバーガーなんてこの世からなくなればいいとまで言い切った。ただ納豆は大好きだという。日本びいきにもほどがある。

ブライアンは当時「漢字」を勉強していたのだが、僕らは面白がって当て字を教えてあげたりした。彼の名前は「ブライアン イエセン」というのだが、「無雷暗 家千」と、わざわざ筆で半紙に書いてあげた。なんとも小学生並みの知能で申し訳なかったが、ブライアンは大喜びであった。

デンマークでは煙草が高騰していて円換算すると一箱1500円くらいだという。ブライアンは煙草に火を点けて2回くらい吸ったあと丁寧に消してその煙草を箱に戻していた。デンマークでは普通の習慣だそうだ。そんなブライアンに僕らは「日本ではそれを”シケモク”って言うんだよ」と教えてあげたりした。それでもブライアンはその”シケモク”を止めることはなかった。

そんなブライアンのいる生活が2週間くらい経ったある日、ブライアンが「そろそろ次の国に行こうと思う」と言った。いよいよ新天地へと旅立つことになったのだ。僕らは彼に日本のお土産をいっぱいあげた。彼は大変喜んでくれた。僕らは「デンマークの友だちには、なにかお土産は持っていかないのか?」と聞いてみた。ブライアンは「お土産は自分に買うものであって人からもらうものではないよ」と言う。「友だちも日本に来ればいいだけだよ」と言う。文化の違いでもあるだろうけど、これはブライアンが常日頃考えていることらしい。「僕は日本でいう”さようなら”は言わないよ だっていつだって会うことができるじゃない たとえどんなに離れていても本当に会いたかったら会いに行けばいいんだよ そんなの簡単なことだよ」そう言って、ブライアンは次の国へと旅立っていった。さよならも言わずに。

 

 

今日をもってアルバイトがひとり、大学を卒業して辞めていった。就職したのである。とても名残惜しそうにしていたけれど、僕は”さよなら”をいうことはない。本当に会いたければ、会いに行けばいいだけなのだから。

 

プロを目指すアルバイトくんも広い世界へどんどん出て行くべきなのだ。本物に会いに行けばいい。孤高の音楽家もそうやって夢だった未来を手繰り寄せている。

そう。夢をみるだけなら誰だってできる。会いにいった瞬間から夢は現実に変わってゆくのだ。

 

 

 

カーラヂオからは八神純子さんの「水色の雨」が流れている。

もう夜が明けそうなのに、なんともエキゾチックなサンバが軽快だ。次の角を曲がれば、自宅はもうそこにある。

「祝う」という生き方

つけっぱなしのラヂオからタレント予報士のかわいい声が聞こえている。桜の開花宣言が一日早いとか遅いとか、でも外はそんなに暖かくなくって、クリーニングに出そうと思っていたコートをまた引っ張りだすという始末。「予感」とやらに僕は油断してしまったらしい。

 

今日は結婚式2次会のパーティー営業だった。ひとりで40人分の料理を作り、そして提供する。アルバイトがお酒を提供してくれるのだが、料理はひとりでやるしかない。大きな予約は嬉しいのだが「ひとりっきり」というそこは個人店のツライところでもある。

昨日は送別会、一昨日も送別会のパーティー営業だった。ここのところまともな休みが取れていない。外注すれば済むのに何故かカルパチョにする魚を1枚1枚手切りで100枚、200枚と揃え、おかげで手首と背筋がゴリゴリに凝っている。そんなことばかりしている。

 

深夜3時。片付けを終え外に出ると、まだ雨はしくしくとアスファルトを濡らしていた。壊れたビニール傘をさしながら駐車場へ向かう。少しだけ土の匂いが鼻をくすぐって「そういえば」と、昼間流れていた開花宣言のニュースを思いだす。桜はまだ咲いてはいない。

駐車場には主の帰りを待っていたであろう雑巾のような車がぽつんと佇んでいる。12月に洗車機で洗ったきりの薄汚れた車だ。僕は疲れた体でありながら、振り払うよう颯爽と車に乗り込みエンジンをかけた。

 

カーラヂオからは日曜の夜だというのに、無駄に元気なパーソナリティーが何やらまくしたてている。ボリュームを少しだけ絞り、ぼんやりと運転をする。

 

 

 

いままで人を祝ってばかりの人生だった。

結婚して子どももいるが、クリスマスも誕生日もずっと父親として参加することはなかった。日曜日は常に仕事だからだ。息子の誕生日であっても当然のように仕事が優先される。自分の子どもよりもまず先に、他人のクリスマスや誕生日をせっせとお祝いしてあげる。それが僕の仕事なのだ。入学式、運動会、卒業式。全く無縁である。「〇〇ちゃんの家は母子家庭なの?」と近所では評判だったらしい。レストランで働く僕の帰りは早くても0時過ぎであり、近所の子どもが僕の姿をみる事はなかったのだろう。妻は笑いながら話してくれて、僕は大笑いした。心はひゅんと冷たくなったけれど。

思えば僕の父親は公務員であり常に家にいた。囲碁が趣味のため本当に家から一歩も外に出ることがない人だった。そんな僕の小さいころはクリスマスも誕生日もだいたいケーキがあったし、プレゼントだって買ってもらっていた。そこに親の愛があったかどうかなんてわからないけれど、平凡な家庭だからこそ平均的な幸せに満ちていたのだろうと今なら容易に気付くことができる。ただ毎年繰り返される儀式のような記念日とかケーキとかプレゼントだとか、果ては杓子定規な父親の姿とかが当時の僕は嫌でたまらなく、公務員とは真逆の料理人という日銭を稼ぐ安定しない職業に憧れていたのだ。

サービス業、主にレストランなど飲食業の人は土日祝の休日は稼ぎ時であるため必然的に休むことはありえない。休みは平日に取得するわけで、これはこれで映画館は空いているし車の渋滞もなく快適だったりするので、そうそう悪いことばかりではない。ただ家庭を持つと、子どもと一緒にいる時間があまり取れないという現実に直面する。それが子どもにとって悪影響なのかどうなのか全くわからないけれど、親として少々引け目に感じて止まないのである。決して育児放棄なわけではないけれど、どうにも生活時間帯がズレてしまうのだ。それでいて子どもの誕生日すら一緒にいられない父親が、全く他人の誕生日ケーキなどを一生懸命作って「おめでとうございます」などと抜かしている。本当間抜けな話である。

それでも、その人の大切な記念日はその日しかなくって、変えることなんてできなくって、その大切な時間を自分に託してもらっていると思えばこんな嬉しい気持ちは他では味わえない。「今日は美味しかったです、ありがとうございました」などと言われた日には、疲れなど簡単に吹き飛んでしまったりする。なんとも単純極まりない職業なのである。

 

 

息子はすでに大学生である。妻の教育がよかったのだろう、真っ直ぐな性格で良い子に育っている。親バカだ。父親がほとんど家に居なくても子は育つのである。妻には感謝しかない。そんな息子とは、親子の会話がほとんどない。幼少期に触れ合ってないせいもあり、どこか遠慮があるのだろう。と思う。いや僕の主観であって、自分でどう接してよいかわからないのが一番の原因だろう。こんな父親をみてどう思うのだろうか。きっと若かりし頃の僕のように、真逆の公務員を目指すのではないかな?などと思って楽しみにしている。

 

 

カーラヂオから、誰のリクエストなのか松田聖子の青いサンゴ礁が流れてきた。現実は深夜であれ、なんだかいい気なものである。「春も行ったり来たりなのに何故この曲?」と曇りはじめたフロントグラスに向かって僕はぼやいている。そのくせ鼻歌交じりなのだ。

 

 

NHK撃退したい人へ

NHKの集金人が来ると「あぁ、またか・・・」と思う人がほとんどだろう。

何故ならハッシュタグから辿り着いたあなた自身がNHK受信料を支払っていないからである。

基本NHKでーす」と訪問する人はNHK職員ではないのだが(業務委託)支払情報を基にピンポイントで行動しているのだ。逃れることは絶対に不可能と言い切らせてもらう。

そんなあなたに参考になればと一筆したためたい。

 

 

まずは有益な情報から。

NHK日本放送協会)は日本国が災害対策基本法で指定する唯一の報道機関であるが、社団法人であり、ざっくりいうと民間の会社なのである。

なので受信料はあくまでもTVを設置した世帯の厚意でお支払い頂くものなのだ。決して強制的に支払わなくてはならない税金ではない。ただし放送法第3章の第64条で契約をしなければならないと記されている。

これもざっくり言うと「TVを設置したら必ず契約してね。法律で決まっているから」ということだ。

ちょうど今、携帯電話のワンセグ受信機能がNHK受信料の対象になるか争われているけれど、これに関しては間違いなく対象である(たぶん判決はひっくり返るはず)

受診を目的とした設備を設置したものという項目で、

 

NHKは観ないから支払う必要なし」

は論外(そんな言い訳通用しない)で

 

「俺はNHK観るためにTV買ったんじゃねーよ」

とか

 

「携帯(スマホ)買ったら勝手についてきた機能だ」

とか、

それはもっともなことなんだけど、受信設備(チューナー)自体がNHKを含むTV番組を観てもらう(受信を目的として)ために作られたものなので、「俺」の意見として受け入れられることは絶対にない。

携帯も、

 

「自宅では電波が悪くてワンセグ受信できないから無理」

 

と言ったところで、受信を目的にした装置(つまりは携帯orスマホ)を持って外に出ればやっぱり受信できちゃうので当然聞き入れられないのだ。(※カーナビも当然受信料の対象)

 

ここまでくると無理じゃん!逆切れするしかないじゃん!となりそうだけど、訪問した委託職員に対してたった5秒で撃退できるワードをお教えしよう。

それは、

 

 

 

「TVないです。携帯持ってません」

 

 

だ。

馬鹿みたいだし噓まる出しだけど、100%OK。(ただしドア越しインターホン越しで対応のこと)

委託職員はもちろんNHK職員でも例外なくお宅の中には入り込めない。不法侵入罪だ。食い下がる委託職員であっても「TVないです」を繰り返せば帰るしかない。TVや携帯の受信機能が確認できなければ契約はできない。。。撃退成功なのだ。

ただし最短で2週間後、遅くとも2ヶ月以内には再訪問される。委託職員は定期的に交代してあなたが契約するまで一生付きまとわれることになる。これも間違いない。何故なら契約をしていない世帯(アパートなら部屋)は隈なくチェックされていて、TVのあるなしに関係なく職員の定期訪問が決まっているからなのである。

 

 

 

あなた自身が一生嘘を突きとおすメンタルと気概があれば是非お試しいただきたい。

 

 

 

 

本当にそれでいいのかな?

 

 

 

例えばNHKは全国に支局がある。未曽有の危機にさらされた東日本大震災の時もいち早く放送したのはNHKである。しかも民間放送局は被災された人たちのスマホ映像や写真を中心に報道していたけれど、NHKは完全独自映像だったのだ。まさに支局が全国にある強みである。

民間の報道が悪いわけではないが、本気のNHKには敵わない。規模が違うのだ。24時間完全に災害情報を流し、Eテレでは安否情報を24時間流し続ける。これを1週間以上平気で続けられる放送局はない。もちろんそのためのNHKであるのだが、自分自身はいつ起こるかもしれぬ災害の情報だけでも受信料を支払う意義が十分にあると感じている。

災害当時のNHK視聴率は70%を超えていた。誰もが困ったときのNHKなのだ。

携帯にしても、災害時津波でTVもろとも流されて電線も切れ外部の情報がすべて途切れた状態では、ワンセグNHK放送だけが頼りになった。

また災害時に中学生が勝手に始めたNHK番組をインターネットで横流しする中継の許可を、上司の判断を待たずにNHK職員がOKを出しちゃった(NHK_PR1号さん/現 作家の浅生 鴨さん)という、お堅いイメージのNHKらしからぬ前代未聞の寛容さも「これで人の命がひとりでも助かるなら」という人間の持つ善の信念からである。やるじゃないかNHKという瞬間だ。

 

災害現場でたった一つのスマホに人が群がっている状況・・・ワンセグの意義は多分にあり、これでワンセグは受信料の対象であることも肯けるであろう。

 

フランス語講座など、誰も観ないような番組を平気でNHKは垂れ流している。

でもお金がなくて大学に行けなかったけど、どうしてもフランス語が勉強したい・・・なんて人だっている。こんな番組視聴率は獲れないからスポンサーもつかない。これもやっぱり必要であり、NHKの仕事なのである。

技術開発・・・ハイビジョンカメラやその映像機器は医療の現場(例えば内視鏡手術の映像画面)で役立てられているし、衛星放送だって電波の弱い地域には絶対必要なアイテムなのだ(都会じゃわからないけど山間部などでは必須アイテム)そんな全くお金にならない技術開発もNHKの仕事だ。民間(キー局)ではスポンサーなしで技術開発などやってる場合ではない。あっという間に倒産だ。

 

受信料というのは名前こそ「受信/料」とTV観る観ないに関係しそうだけれど、必ず自分自身の生活に反映されている。税金ではないが、限りなく税金に近い存在であることに間違いはない。

 

だからこそ受信料はちゃんと支払うべきと私は思っている。

 

 

 

 

ここまで読んでしまったあなた・・・受信料払ってもいいかな?とか思いました?

これ、私がNHK委託職員時代に数々の未契約者を契約に導いた際の話術の一部です

参考になりました?

 

 

ちなみにNHK受信料契約しないと絶対紅白を観覧できません。あしからず。

では。

 

辻村深月さんを深読み「名前探しの放課後」徹底考察&相関図

名前探しの放課後』再読しました。

 

今回は深く読み込んだ事情も含めてじっくりとこの作品を考察してみたいと思います。

以後かなりなネタバレなので、もう絶対知りたくない人は読まないでね。

 

この『名前探しの放課後』は上下巻約850頁にも及ぶ大作で、真剣に読んだら7~8時間かかると思われる。

で、この物語は辻村さんの著作『ぼくのメジャースプーン』で活躍した小学生たちがそっくりそのまま高校生となって活躍している作品。

いわゆる別作品と登場人物がリンクしてるっていうより姉妹本といってもいいくらいの関係で、もちろん<姉妹本>とか<登場人物が一緒です>とか書いてあるわけじゃないんだけど(そんな野暮なことはしないか)注意深く読むと・・・・・

 

 

 


まず『天木敬』登場の場面(名前探し㊤125P~126P)サッカー部の活動も手を抜かない文武両道のお手本、教師の信頼も厚く自分たちの代ナンバー1だという記述があり、これは『ぼくのメジャースプーン』(76P)タカシはサッカーがすごくうまくて、女子からモテる。という記述と符合し、天木敬=タカシで間違いないだろう。


その天木と秀人は小学校以来の親友(名前探し㊤125P)ということなので、秀人も<ぼくメジャ>関係者と推察される。

また、秀人の彼女である『椿』は、小学校からピアノと習字そして短歌を習っているという記述と(名前探し㊤389P)『ぼくのメジャースプーン』でヒロインだった『ふみちゃん』の習字、ピアノ、公文、生け花と短歌を習っていたこともあるという記述と符合(ぼくメジャ17P)するので・・・つまり、椿さん=ふみちゃんではないか?

更にもしも彼女がふみちゃんだったら、秀人=ぼくではないのか?と怪しげな雰囲気に辿り着ける。(ぼくのメジャースプーンの主人公は<ぼく>としか記されていない)
まーこの<椿=ふみちゃん><秀人=ぼく>というネタバレはエピローグ(名前探し㊦440P~441P)で明らかになるので、こんなに深読みしなくても充分物語は楽しめるんだけどね。

ただ、秀人=ぼくなのだから<あの力>は重要なファクターになるのだ。
(あの力→条件提示ゲーム能力という呪いの力)

そうなってくると登場人物のなかにいる『ハルくん』が気になる。・・・名前は小瀬友春。
彼は<ぼくメジャ>の『トモ』ではないのか?
よく読むと秀人とハルくんは、大昔に大喧嘩して酷い殴り合いをしたという記述がある(名前探し㊤284P)・・・それってもしかしなくてもあの力を試して二度とふみちゃんと会話できないようにしたあの事件でしょ!(ぼくメジャ358P~数ページ)

当時はトモって呼ばれてたけど、中学生ころから呼び名がハル(友春の下の字のハル)になったという記述がなされている(名前探し㊤403P)
そーなると・・・あぁやっぱり・・・作品中、椿と友春が会話をするシーンはないのだ!

あと本筋にはあんまり関係ないけど、いつかと付き合っていたアヤ・・・豊田綾乃は、ぼくメジャのあーちゃんだと思われますね。

これは確証がないんだけど、同じ小学校だった椿、天木、秀人がこぞって美人と賞賛していたあたり非常に怪しい(笑)なにしろ小学生だったあーちゃんはとてもかわいくTVの生中継取材にも登場するくらいなのだ(ぼくメジャ75P)

このあたりまでが作品に影響を深く与える人たちで、そのほか松永郁也くん、芹沢光(理帆子)と多恵さん(郁也くんのお手伝いさん)という『凍りのくじら』メンバーが出てますね!

郁也くんは同じ高校に籍を置く特待生・・・クリスマスイブパーティーの席でピアノを弾いてくれてますし、ドラえもん好きの一面も見せてます(名前探し㊦242P)

 
クリスマスイブパーティーで写真を撮っている髪の長い美人が理帆子で、そのとき撮った写真は大晦日夜から初詣に行った際あすなからいつかに渡されてますね。

あとは、理帆子の母校F高校は皆の通う藤見高校と思われ、理帆子が通っていた当時有名進学校だったのに、最近はそこそこ進学校になった(多分6年程歳の差があると思われる)を匂わせる記述がされてます(名前探し㊤125P)


ちなみに郁也くんは『ぼくのメジャースプーン』にもちょろっと出てて、ふみ(椿)が嫌がったピアノ発表会で、順番が繰り上がってふみの直前にピアノを披露したのが郁也くん。だから秀人と郁也くんはなんとなく面識があるはず。ふみちゃんも『凍りのくじら』では郁也と同じ<きちんとスラスラお話ができる教室>に通っている。

 

あとはやっぱり秋先生かな。 
秀人と同じ能力(条件提示ゲーム能力)の持ち主。

秀人の親戚の叔父さんでもある。


D大学で教育学部児童心理学科の教授である秋山先生は『子どもたちは夜と遊ぶ』で重要な役柄で登場、『ぼくのメジャースプーン』でも、ぼく=秀人を助ける重要な人物である。

秋先生の登場は12月22日、河野の友春が繁華街であすなに目撃された事件で(名前探し㊦280P)白髪まじりの男性の記述があり、椿が『ごぶさたしてます』と挨拶すると親しげに微笑するくだりや『長尾くんのお父さん?』とあすなが雰囲気が似ていることを指摘、さらに秀人が『昔の恩師』と紹介するところで決定的だ。
ちなみにこの時はこの事件に至った経緯を、秀人は秋先生に報告していないようだ(名前探し㊦440P)

もっと細かく探せばでてくるのかな?<チヨダ・コーキ>の本とか(名前探し㊦147P)
これは『スロウハイツの神様』で活躍する作家チヨダ・コーキの本に夢中になる二人のシーン。

とりあえず本題はストーリーな訳で、でもこの各自の生い立ちや繋がりが微妙に物語の味付けに関わってくる。この『名前探しの放課後』を理解するのには巷でよく言われる『他の作品を読んでからこれを読んで』ということは、まあこーゆうことなんですね。

 

さて、ストーリーは再読するとわかるけど二段構えで、初読のときは素直に騙されて最後に『え~そうだったの』という流れで、登場人物の相互の会話に違和感がありながらも温かい気持ちになるという感じかな(捻くれてなければ)

再読時はあすなをみんなで騙していることを知っているので、登場人物の会話の違和感が何故発生したのかがわかってくると思う。


注意して読むと、あすなとの会話のほとんどが違和感で、付随する他の登場人物の動向に引っ掛かる部分が多すぎる(笑)無限にばら撒かれる伏線なんだけど、勘のいい読者なら要チェックして読んでるところでしょう。この擦れ違いの会話が結果を知っている身としては、涙がでるほどジーンとくるのだ。

それにしても天木のリーダーシップはすばらしいね。ぐいぐいと自分の企てたストーリーに引き込む様子は圧巻!協力する河野の演技力には脱帽ものだけど、他メンバーのさり気ない演技もなかなかだよ。


性格として<頭のいい合理主義>という天木・・・小学生からそうだったよね・・・自分の班にふみちゃんを引き入れて、先生にわからない質問をされたときにも対処しようと企んでいた・・・それがタカシなんだ(ぼくメジャ77P)・・・協力するにあたって対価を求めるあたりが厭らしい(笑)


椿が語る『おおかみ少年』の一節も興味深い挿話・・・読書好きで、読んだ本の内容を必ず現実と結びつけて自分のものにする(ぼくメジャ26P)という姿勢が、嘘をつく少年を責めるのではなく、実は101回目を信じなかった住民の戒めではないかと解くあたり(名前探し㊤202P)・・・聡明さを感じ是ずにはいられない。

 

まぁ一番食えない奴は秀人だけど。

 

さっきストーリーは二段構えって説明したけど、厳密には三段構えとも見て取れますよね・・・だってこの現象を巻き起こしたのは他でもない秀人なんだから。

 

勘の良い天木が再三『お前は冷静すぎる・・・一番のキレ者はお前のはずなのに』なんていうけど、そりゃそうでしょ(笑)タイムスリップという現象で説明したいつかの記憶を操作したのは秀人なんだから。


つまり、いつかが説明したタイムスリップという現象を信じて、あすなの自殺を食い止める演技を皆で一生懸命していた中、秀人だけは最初からタイムスリップではなく

 

『三ヵ月後にいつかの気になっている女の子が死ぬ』

 

ていう<あの力>で歪んだ記憶だということを知っていた訳で、皆の行動をじっくり観察していたに違いないのだ。

 

こんな風に書くと秀人がすごく嫌な奴に映るけど、実際スタートと結末しかわからない秀人は、いつかの相談に必ず乗らなければならなかった訳で、結末に至るまでの過程はやっぱり努力しなければならなかったのだから、やっぱり充実した三ヶ月を過ごしたに違いない。(このあたりはエピローグに秀人が吐露してますねぇ)


ちゃらちゃらしてたいつかの本気度をちょっと試しちゃった結果が一大事だったって事。
想像もしなかったいつかの心を覗いた秀人は素直に感動したんだと思う。秀人はもともと真っ直ぐな心の持ち主だからね。

 

整理すると、河野の自殺を食い止めるっていう努力の過程に友情を感じ、それが本当はあすなを救う手段だったという感動があり、あすなに悟られないようにメンバーが協力してあすなの自殺を食い止める過程での会話の妙(会話のすべてが裏返しの意味を持つ・・・二重の意味合いって感じかな)を感じて心温まるってのと、実は秀人の仕組んだことでタイムスリップでもなんでもなく、いつかが気付かなかったあすなへの想いを確信に導くために、秀人以外のメンバーが踊らされていた妙を感じるところが、この物語の深いところでもあるんじゃないかな。

 

事の顛末をいずれ聞かされる師匠『秋先生』も苦笑でしょう。

 


さて、この舞台になっている富士山の麓、富士吉田(本文中は不二芳)で、フォレストランドはもちろん富士急ハイランド
エピローグにある川は『鐘山の滝』ではないかと連想され、流れ着く池は『忍野八海』と呼ばれる山中湖近辺随一の観光スポットですね。

 

忍野八海の池は透明度が高く深さもかなりある。著者はこの辺りが地元なのだろう・・・山梨県出身としかわからないけど、やっぱり地元感に溢れる描写がすばらしいもんね。

 

この他、地図を辿れば色々発見もあるのだろうけど、それはもっとマニアの方にお任せかな(笑)

 

「加害者家族」と「フクシマ県民」とを考える

例えば、もし殺人を犯し収監され服役中の兄弟がいたとして、そのことを人に話せるだろうか。

 

「手紙」という東野圭吾さんの小説である。ざっくり説明すると、服役中である兄の存在が弟の人生を狂わせる大きな負担として描かれた哀切伴う作品だ。

弟は殺人犯ではない。ただ、世間から「なるべくなら関わりたくない」という偏見により住む場所を追われ、友だちをなくし、就職もままならない現実に堕ちてゆくのだ。

小説の中では、弟を信じ心を分かち合う友や生涯を添う伴侶にも巡り合うけれど、行く先々で兄の存在を知られることによりその末路は決して明るくはない。

 

真っ暗な未来の先にみえる消えそうな希望の灯かりを目指し小説は綴じられている。

 

 

 

 

東日本大震災から6年目を迎えている。

閖上の復興が未だ気になるところだが、東北全体を俯瞰すれば遅れている一部地域を除き未来が見え始めている。もちろん昔のまんまという訳にはいかないだろうけど、津波被害を教訓に新しい街づくりの息吹は各地で形になりつつある。

 

 

 

 

問題は福島県風評被害だろう。

未だフクシマという表記はなくならず、放射線量がどうこう汚染水がどうこう・・・・米だの野菜だの何かと言っては敬遠されている。

 

自分はどうだろう。

福島産のコシヒカリを買うし、桃だって今年も美味しくいただいた。「自分は」だ。

 つまり、生まれたばかりの赤ちゃんや幼子を抱えた状態で福島産のコシヒカリを食べさせようとは思わない。せめて埼玉産だろう。

 

 

この事象は至って常識の範囲内だと思っている。誰もが自分の子どもにだけは何らかの危険が降りかかるのを避けたいはずなのだ。

もちろん人体に及ぶ放射線被害など、実はもうほとんど影響ないのだろう。様々なデータや研究者、学者、大学教授などからも証明されている。

 

 

でも、

 

でもである。

 

持論を申せば、危険区域を国が全部買い取るべきだったと思っている。そして国が推進してきた原発なのだから、政府が責任を持って対処するべきであった。東京電力に押し付けていてはだめなのだ。国が原発事故による危険区域を買い取り全て隔離する。住んでいた住民には二度とこの土地に帰れない旨を伝え代替地を用意する。そして残った福島県をまとめて全く別の名前のX県として新しいスタートを切らせるべきであった。福島という名前を封殺するのだ。

 

 

 

福島抹殺。

 

 

 

五十年もあれば代替わりして「福島県」という存在を忘れ、新しい「X県」として認知され、それが常識となり風評などという莫迦げた被害も皆無でなのである。

 

極論である。福島県に長年住んできた人たちにとって、謝って済む問題ではないのは重々承知である。それでも国は金で解決しなければならない。このエントリーを書きながら涙が滲んでくる。ダム建設によって村ごと水没して失う憐れな村民と同じなのだ。

 

国がいい顔をしようとして「いつかは帰れる」みたいな幻想を抱かせたことにより、危険区域だった地区の復興は今後も困難を極めるだろう。もともと住んでいた人たちはもちろん帰りたいにきまってる。ではそんな「あや」がついた土地に観光で行きたいか?農作物を食べたいか?復興を手助けするために我慢して観光したり食べたりするのでは本末転倒なのだ。

 

国は買い取った危険区域をすべて研究施設や工場など無機質なものにして、危険区域でないX県に観光や農産物を集中させるべきだったのでは・・・と今でも考えている。

 

 

血も涙もない解決策であるが、極めて現実的ではないか?

 

同和問題」というのを小学生のころ「道徳」の時間で学んだ。

いまは道徳の授業はなく同和問題を知らない若者だらけだ。同和地区はいつのまにかカタカナ表記の名前に生まれ変わり、いまやお洒落な街として根付いている。

同じことを村レベルではなく県レベルでやるだけのことだ。できないはずはない。

 

福島というお家断絶へ追い込んだ原発の罪は極めて重い。その地区の歴史を終わらせようというのだから。

それでも残された真っ暗な土地に希望の灯かりがあるとすれば、きっとそういうことだと思っている。

 

 

小説「手紙」の主人公である弟は兄と決別し生きてゆくことを決める。兄の存在を抹殺して。

棘の道である。それでも心の奥底に楽しかった兄との想い出を忘れることはない。

 

 

 

 

 

 

獨協大学の講師であり学者のOさんと一晩語り明かした備忘録です。

 

手紙 (文春文庫)

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