さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

二.一四事変(かほり)

秋口からずっと気になる人がいた。

いや、実は夏くらいからチラ見していた。

朝の通勤電車で同じ駅から乗車するサラリーマン。35歳くらいかな。寝起きのまま会社に行くのか軽いウェーブのかかった頭はボサボサのまま、いっつも眠たそうな顔で、でもその優しそうなタレ目と無精ヒゲが愛くるしくて、わたしは見つけた瞬間からゾッコンだった。

そして、彼がいつも3両目の一番左のドアから乗るのを早々にチェックして、それからというもの、わたしも一緒に乗ることにした。

その日からもう三ヶ月。わたしの好き好きビームに超鈍感な彼は全然気付くことなく、でもそんなところもいいなって思ってて、この超片思いはいつまで続くのやらと嘆きながら、わたしはいつも彼から元気をもらっていた。

 

一月になって、偶然にも彼が帰る同じ電車に乗り合わせることがあった。

本当は帰りの電車1本ずつ検証していたのだけど。

朝はわたしのほうが先に降りてしまうからわからなかったけど、結構遅い時間に帰るんだなあと苦労の末に見つけ出した情報は、わたしの脳内に無事インプットされた。

それからというもの、わたしはこの帰りの電車もマークして、3回に2回、彼がこの時刻の電車に乗ることを確認した。ただこの時間の彼はタレ目がさらに下がり、疲労困ぱいしているよう。そこがまたかわいいのだけど、なんだか可哀想だなあとも。

わたしの好きはとまらない。

わかってる。これをストーカーって言うんだ。でも、でも、わたしから告るなんて絶対出来ない。でも…

目まぐるしく葛藤した脳内から導き出した答え…それは「バレンタインにあやかってチョコを渡す」だった。

とにかく偶然を装ってバレンタインにチョコレートを渡そう。帰りの電車が駅に着いて改札を出るとちょうど0時…超ドラマチック!などと妄想が妄想を呼び、わたしは何度もお腹いっぱいになりながらシュミレーションを繰り返した。

そして運命の2月13日、わたしは最終1本前の電車に乗ったのだ。幸先よく空いた席にそそくさと座り静かに目を閉じる。全てを運に任せよう。彼がこの前の電車で帰ってしまってたら潔く諦める。もしこの電車に乗ってきたら、そのときは…

二.一四事変(たけし)

営業という仕事に終わりはない。

膨大なノルマのため右に左に奔走し、月末ギリギリまで追われ続け、なんとかノルマを達成したところで月が変わればその月のノルマはまたゼロから始まるのだ。数字に追われない日など永遠に訪れることがない。

その日はだいぶ疲れていた。

つり革を掴んだ手の甲に額をつけて寄りかかり、電車の揺れに身を任せたまま薄眼を開けたり閉じたり虚ろなまま窓の外をぼんやり眺めていた。バン!と窓を弾いてすれ違う上り列車の大きな音すら何処か遠くで鳴っているようにしか聴こえない。

停車駅。偶然目の前の席が空いた。

「ラッキー」と思ったのは、正直座りたかったという理由の他に、隣の女性が好みだったからということもあったり。

 まだ火曜か…

ふと隣を見ると俯いている彼女は寝ている様子。その可愛らしい寝顔をぼんやりと眺め、まじまじと眺め、そして吸い込まれるようにゆっくりと、あるいは一瞬で意識は薄らいでいった。

 

 

ガバッ!

寝過ごした!

何故か隣の彼女と目があった。
「わたしも」
小さな声で、それは僕にだけ聞こえるよう手のひらで口元を隠してこっそりと。 

「あっどもっ」

と、状況を把握できていない僕は軽く会釈をし、この瞬間彼女の顔をはっきり確認した。抜群な美女ではないけれど、愛くるしい小動物のような仕草がシマリスを連想させる。

めちゃくちゃ動揺している僕に対して案外冷静な彼女。ここはおじさんとしてプライドと余裕を見せてやろうと
「やっちゃったね」
と言ってみた。

彼女はエヘへッと肩をすくませて、バックの中をガサゴソとして何かを取り出すと
「はいっ!どうぞ」
と僕に一粒のチョコレートを。

「ハッピーバレンタインですよ」

ちょっと不恰好に包まれたチョコレート。これ市販品?と考える間もなく慌ててスマホを見ると、すでに0時を過ぎていて、それは僕らに訪れた一度切りのバレンタイン。

あれ?

これ?

ちょっと好きかも?

突然のドキドキは乗り過ごしたことを超越して、とにかく次の駅へ着くまでに続きのストーリーを作ることが僕に求められた使命だと我がドーパミンが突如最大活性を始めていた。
「あの」
「あの」
声が重なった。僕らは目を合わせて自然と笑いが止まらない。ふたりを乗せた電車は、もうゆっくりとホームへと滑り込んでいるというのに…

あとがき(恋煩い)

この物語、先月のはじめに僕が本当に参加した自己啓発セミナーの出来事がベースになっています。ただ、もちろんこれはだいぶ脚色されたお話で、でも半分くらいは本当で、だからハッピーエンドを迎えようならたちまちゲス不倫になってしまいます。なので本編もバッドエンドです。

彼女はとっても可愛くて(これはまぢ一目惚れしましたね、ええ。)本編中の彼女の振る舞いは半分くらい本当です。あとは過去の経験からとかドラマのワンシーンとかからですねえ。本物の彼女はもう少し気が強くて!、結構セミナー中も挙手して発言して、嫌がる僕にも「テ アゲナヨ ホラ ホラ」と何度も突っつかれました(笑)

1セッション3時間で12回あったセミナーのうち、彼女と一緒に座れたのは6回で、本編同様に奇数席と偶数席を読みまちがえて背中合わせになったりしました。

連絡先は本当に交換できなくて、彼女は僕のお店のホームページしか知りません。ただ店の名前は紙切れに書いて渡しているので、ネットで調べてお店を訪ねてくるかも?とかちょっとだけ期待しています。すみません。ゲスいです。

 

今回は小説になるべく寄せていこうという、かつてない意欲作で15000字を超え、本物の短編作品と同じくらいのお話になりました。

 

またチャレンジしたいですね。

ではでは。

恋煩い(こいわずらい)砂時計

セミナー最終日の朝。

二日泊まって、もうチェックアウトが迫っているというのに、今更ながら初めて窓を開けてみた。ビルの隙間から小さく見える空はどんよりとした曇り空で、正面のビルにぶつかって跳ね返るその風は、起き抜けのTシャツ1枚だった僕の首元に容赦なく襲いかかってくる。刺すような冷たい風に首をすくめ、慌てて窓を閉め、編み込みのカーディガンを急いで羽織り身震いした。

起きてから点けっぱなしのTV。トランプ大統領来日のニュースもそこそこに、お天気アナのかわいい声が流れてきた。

「今日の最高気温は10℃以下で、正午からはお天気が崩れる地域もあるようです。お出掛けされる方は折りたたみ傘を持って、どうぞ暖かいい格好で。。。」

画面の中には真っ白なモフモフの格好に暖かそうなイヤーマフを着けた子が、ちょっと寒そうにビルの屋上でニコニコしている姿が映っていた。

 

身支度を整えフロントへ急ぐ。

まだぼんやりと、昨日見た彼女の俯いた寂しげな表情と、屈託のない笑顔の両方を思い浮かべている。

お世話になったホテルをチェックアウトした僕は、ガラガラとキャリーバッグを引きずりながら会場であるビルへと急いで向かっていった。

 

 

最終日のセミナー。

まずは「人は人が怖い」という話だ。

「あなたはエレベーターにひとりで乗っています。ひとりのときのあなたは自由で、心に余裕があり、何なら歌でも歌い出したい気持ちです」

笑い声がチラホラ。

「途中、エレベーターが止まってもうひとり乗り合わせました。あなたは何故か突然スマホを取り出し目を泳がせます。そうです。あなたは人が怖いのです。自分を知らない人が自分のテリトリーに入ってくることが不安でたまらないのです」

「途中から乗り合わせた人はどうでしょう。その人もあなたに背を向けてエレベーターのボタンを見つめています。そう、やっぱり人が怖いのです」

「基本、人は人が怖いものです。でも、それは、あなたの、ただの、先入観に過ぎません」

 

さて、と講師から課題が出された。

「それでは隣の人とペアになってくださーい。ペアになった人の目を見て、そーう、目を離してはいけませーん。そのままーそのままー。そのままOKを出すまでずっと見つめ合ってくださいねー」

「はい、始め!」

 

その日は最初から彼女の隣へ座ることができていた。探すことなく、偶然でもなく。それは彼女が着ていたコートを置いて席を確保してくれていたから。そして、遅れていった僕に「んもうっ」て頬を少し膨らませて、お互いプッと吹き出すくらい、ふたりはひとつに。

始め!の声に反応して、会場中に照れの空気がさあっと広がってゆく。

僕らも、ほんの少しだけ照れながら見つめ合った。

茶髪が目の上でパッツンと切り揃えられ、茶色い瞳が少し潤んでいる。コンタクトをしている彼女は、視力の悪い人特有のキラキラした瞳なのだ。人は恥ずかしさを紛らすために顔に手をもっていく。彼女は僕を見つめながら前髪を気にして、耳に髪をかけ直し、そしてちょっとだけ笑みが零れる。見つめる僕も、眼鏡をかけ直し、鼻をかき、きっと目尻はさがったままに違いない。

パン!と手の鳴る音とともに、彼女はまたも僕のお腹に軽くグーパンチを食らわせて、そして笑った。会場中に安堵が広がってゆく。人の目を見て話すって、けっこう大切なことなんだ。

 

セミナーは終焉へとまたひとつコマを進めていた。

それは僕らの時間も終わりに向かっているということ。僕は紙切れを手にとり「メール教えて」と書いて、彼女に手渡した。彼女は「アトデネ」と僕にしか聞こえない小声とともに、その紙切れをリュックに仕舞う。

このセミナーの後はすぐグループ行動になり彼女と離れてしまう。最後の1コマはこのセミナーを運営するスタッフとともに、次の新しいセミナーに参加するための説明会という悪魔の時間が設けられていた。

彼女とは、一緒に帰る夜しかもう話すことができない。彼女とともに受けていたその時間が楽しすぎて、僕らは連絡先を交わすという大切なことを忘れていた。何で昨日一緒に帰ったときLINE交換しなかったんだろう。セミナー中はスマホを取り出すことが出来ないので「アドレスを紙切れに書いてもらう」というアナログな方法しか、そのときの僕には思いつかなかった。

 

最終コマ。

少し遠くの席から後ろを振り返り、僕を見つけて胸の前で小さく手を振る彼女。

もっと、もっと話したい。ふたりでどこか遠くへ繰り出してみたい。

妻がいる。娘だっている。

それなのに、この抑えきれない衝動をどうしたらいいのだろう。一緒に食事をするだけ、一緒に東京タワーに行くだけ。正当化できないだろうか。

いままで生きてきた時間に比べればたった三日間だけれど、僕らは揺れるつり橋でしっかりと手を繋ぎ、支え合って歩んできた。愛の確認なんてしない。言葉なんか交わさなくても、身体が交わることなんかに意味はなく、ふたりはひとつになっていた。

出会いは偶然なんかじゃない。生きているなかで、こんなに濃密な時間があるのならば、それは間違いなく必然なはず。

離れたくない。

 

そればかり頭がいっぱいで、そのどうしようもない気持ちを抱えたまま、最終セミナーは終演を迎えていた。

ただ、どうしようもない気持ちのなか、僕は彼女を誘って東京タワーに行くことだけは決めていた。ふたりが出会った東京という街を、彼女と一緒に眺めることで自分の気持ちに何か踏みだす変化が訪れないかと、その可能性を模索していたから。

 

セミナー終了後、グループの面々と握手を交わす。三日間行動を共にした仲間だ。この面々ともこれはこれで必然だったのだろう。少しばかりの感慨がある。

僕は仲間たちに別れを告げ、すぐさま彼女を探す。さらに大金を注ぎ込む新しいセミナーへ誘導しようと躍起になったスタッフが、受講を終えた人たちを取り囲み、次々と席へと座らせ、少々強引に話しを繰り広げている。

そんな僕もスタッフに取り囲まれる始末。

次から次へと現れるスタッフにウンザリしながら「やりませんから」「あぁ、やりませんから」と振り切り彼女を探す。

 

いた!

ごった返す人の波をかき分け、彼女の元へたどり着こうとしたその横からスタッフの石川さんが現れ

「コウさん!こっち!」

と彼女の手を引いて連れ去ってゆく。

僕に気づいた彼女は握りしめていた紙切れをひらひらと振って

「マッテテ」

と、唇に思いを馳せた。僕は

「外で」

と、精一杯の想いを飛ばすしかなかった。

 

 

彼女はひとりであの難局を乗り越えられるだろうか。

僕はロビーのベンチに腰掛けて、もう中身が空になっているペットボトルをずっと握りしめている。

 

スマホに目を落とす。

23時33分が湘南新宿ラインの最終だ。

すでに23時を回っている。駅までは、頑張れば10分と掛からずたどり着けるはず。それでも。

警備員の目を気にした僕はビルの外で待つことにした。

 

外は、いつからなのか小雨が降り始めていた。

「折り畳み傘、か」

と、こんなとき彼女なら絶対「もうっ」て頬を膨らませてリュックから傘を出してくれるんだろうなあ、なんて考えていた。

 

 

 

時間だ。

 

 

 

 

 

 

彼女は来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は小雨のなか、静かに駅へと歩き出していた。彼女が追って来ないかと、何度も、何度も振り返りながら。

 

出会ったその瞬間から別れのカウントダウンは始まる。

神様は、僕たちふたりに透明な砂時計を渡した。それがどれくらいの大きさか、ふたりにはわからない。ただ、ふたりが出会ってからの想い出がゆっくりと硝子に降り積もってゆき、やがてその降り注ぐ砂は残像だけとなり、そうして硝子の向こう側をはっきりと映しだしたいま、僕たちは終わったのだ。

都庁を越え、僕はもう振り返らなかった。昨日ここをふたりで歩いたとき、こんな結末がくることなんて少しも考えていなかった。

新宿駅西口はまだ賑やかで、ただ、そのキラキラと輝くネオンに、いま僕は色が感じられないでいる。

 

 

昨日別れた改札口。

 

 

今日は、ひとりで通り抜ける。

 

くるっと振り返って、僕は胸の前で小さくバイバイした。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

エピローグ

 

電車に乗った僕は、彼女が見せてくれた笑顔をひとつひとつ思いだしながら自分を責めていた。

もし、僕に勇気があったなら、強引に彼女を連れだすことができたんじゃないか。

もし最終なんか気にせず彼女を待っていたら、違う未来があったんじゃないか。

彼女のことは「コウ」という苗字だけしかわからない。何故連絡先をもっと早く交換していなかったんだろう。

 

僕は彼女とつり橋を渡りながら、ひとり置き去りにして、引き返してきたのだ。

 

 

 

きっとこのまま僕はこの日のことを忘れてしまう。それは哀しいことだけれど。その哀しみさえも、やがて忘れてしまうだろう。

 

神様がくれた砂時計は、胸の中の大切な場所にしまわれて、そして、いつの日か僕が土に還ったとき、その砂の想い出は「もうっ」と頬を膨らませて笑いかけてくれるだろうか。

 

 

 

いま、僕だけを乗せた電車は大きな音を立てて荒川を越えてゆく。

 

 

 

 

 

 

えっと、あとがきです

(続

 

 

恋煩い(こいわずらい)逃亡

二日目の最終セミナーだけあって内容は佳境を迎えている。

自己啓発セミナーも明日を残すのみだ。熱く語る講師。その熱血トークに感化された受講者たちの集団はどんどんと熱気を帯びてきていた。それはもう室内の空調を脅かすほどに。

 

紙切れに

「暑いね」

とだけ書いてチラッと見せる。

するとちょっとだけ顔を傾け横目でクリっと見つめて「ネッ」と唇を動かす。

 

そんなことをよそに、ますます白熱するセミナー。

僕は無意識のうちにペットボトルを取り出すと、少しだけ口に含んでいた。

セミナーが1回3時間と言う長丁場なので、ペットボトルで水分を補給することはOKだった。それはセミナーの最初、スタッフに説明されていた。ただ、あまり飲むとトイレに行きたくなるので、もうほんの少しだけ。

すると、手の甲でコンコン。

「んっ?」と横を向くと彼女がまた口の動きだけで

「チョーダイ」

と言う。

彼女の手のひらを見ると、さっきのキャンディーをチラつかせて「さっきあげたでしょ!」みたいな、ちょっと企んだような悪戯っぽい顔で 

「ハーヤークー」

正直ドキドキする。いや、こんなのよくあることじゃん!とか思う。

そっとペットボトルを手渡すと、わざと同じ角度にペットボトルを構え、横目でチラチラと僕の様子を伺いながら、少しだけぬるくなった水を共有した。

「こんなの普通よ」みたいに振る舞う彼女は、こっちを見ずに、わざと熱弁を奮う講師のほうだけを向いて

「アリガト」

と小さく唇を揺らした。

 

 

講師のボルテージは最高潮に。

 「この中でまだ挙手してない人はいますか!それはまだあなた自身がこのセミナーの本当を体験していなってことですよ!」

「ここはテニスコートです。あなたはコートで試合をしていますか?それとも観客席で批評しているだけですか?」

「観客席にいるならばコートに降りて試合をしてみて下さい。景色が違う!見える世界が違うのです!あのコースに決めたらよかったのに。。。じゃないんです!あのコースへ決めるために、その一点だけに集中するのです!」

 

僕らは観客席の端っこで違う話をしていた。いや、違うコートで別の試合をしていたのかもしれない。セミナーの内容は「家族に心を開く」のようなテーマで、彼女は自分の年の離れた弟についてボソッと呟いてくれた。

「オトウト イジメタコトアル」

それは彼女の本当の悩み。

ただセミナーの途中だし「後でね」と講師に目を付けられないよう僕らはひっそりと景色に同化した。

そして彼女の「うん」は、それは、どちらからともなく一緒に帰るという約束になった。

 

 

 

スタッフが声を張る。

 「それでは今日のセミナーはここまでです!次回のセミナーに応募される方は後ろの席で所定の用紙にご記入ください!よろしくお願いします」

 

なんと最終セミナーの前に次回へ応募させる仕組みなのだ。セミナー自体はなかなか面白い話なのに少しだけ残念に思う。

僕も彼女も次回に応募する気持ちなどサラサラない。応募する人たちの列をかき分けて帰ろうとすると、さっきの石川さんが目聡く彼女を発見し、話しかけてきた。

 「コウさん、次も来るわよねぇ。ねっ!この用紙書こう!」

 と彼女を僕から引き離し連れ去ろうとする。

僕はとっさに

 「彼女、家族にいま電話するみたいですよ、さっきのセミナーで家族に電話するってあったじゃないですか。早く電話しないと寝ちゃうらしいので。。。」

「ねっコウさん、早く電話したほうがいいよ!」

 とグイっと彼女の手を握り、ごった返す人の波をかき分け、ふたりで逃亡した。

 

エレベーターを使わずわざと非常階段で降りる。

10Fから1Fは相当つらい。

でも、手を繋いだまま僕らは一気に1Fまで駆け下りて、のろのろ開いた自動扉の前から"いっせいのせっ"で、ふたりでピョンとジャンプして外へ飛び出した。息を切らせながらお互い顔を見合わせて大笑いする。高層ビルの隙間から見える空には月が煌々と光っていて、そんな月を見上げながら、心の中ではRADWIMPSの「前前前世」のイントロが始まっていた。

 

僕らは駅に向かってゆっくりと歩きだした。

手を繋いでいたことが急に恥ずかしくなって、スマホを取り出す。

都庁からのビル風がふたりに吹きつける。

「寒っ」

と肩をすくめた。彼女は身体を少しだけ寄せて、その左手を僕の右腕に少しだけ滑りこませ、恥ずかしそうに袖口の内側を掴んでいた。

 

駅まではわずか10分ほどで着いてしまう。

僕はスマホで自分が働くBARのホームページを表示させて「こんなお店やってるんだ」と見せてあげた。

目をまるくした彼女は

 「カッコイイネ!ワタシ イキタイ!」

 とハイテンションで褒めてくれる。

 「いつでも来て!」

 と、これはもう本当に彼女に僕のお店を見てもらいたいという一心での声。

そして歩きながら、さっきの弟の話に戻った。

 

弟とは12歳も離れていて、いま重い病気で入院生活を送っているという。弟は覚えてないだろうけど、まだ小さかった頃、八つ当たりして弟を叩いて泣かせたことがある。気がつくと、彼女は伏せ目がちに足元の冷たいアスファルトへ話しかけていた。

僕は、 

「弟さんに、いまの話してみたら?正直に」

 と、言ってみる。

彼女は

 「ソンナノ ワタシナイチャウ」

 と、笑顔を作り、ちょっと戯けたフリをして、でもそんな彼女の真剣な眼差しは、このことが占める心の重さをよく表していた。

 「難しいね」

 とだけ呟き、僕は彼女の手を挟むように右手をポケットに突っ込んだ。

本当は彼女を抱きしめてあげたくて、でも彼女を抱きしめるなんてとても出来なくて、それは思いつく精一杯の悪あがきだった。誰かのヒットソングじゃないけれど、その瞬間彼女をそっとポケットにお招きしたい気持ちと抱きしめたいと、でもどこかに理性のカケラがあったのかもしれない。

彼女の手はもう完全に僕の右腕をしっかりと巻き込んでいて、それはもうどこからみても恋人同士のそれにしか見えないはずで、そのくせ僕らはお互いの気持ちを声にだすことは絶対にしなかった。その境界線から飛びだすことは、ふたりの覚悟であり終わりの始まりとわかっていたから。

 

青い月が僕らふたりを照らしている。

 

叶わぬ恋と知っていても、セミナーという異空間にいた僕らふたりは完全に別世界にいた。駅までのほんのわずかな時間、わざと信号を守ったり、押し合ったりしてわざと蛇行したり、彼女の髪が揺れるたび、僕はカウントダウンが進んでいることを忘れられた。

明日が終われば、また日常に戻ってしまう。

彼女とはまた会うことが出来るのだろうか。

 

駅に着く。

 

彼女と改札口の前まで。

 彼女は僕から手を離すと改札を背に僕の正面に回り、少しだけおでこを僕の胸にくっつけた。

 

ほんのちょっとだけ時間が止まる。

 「ハイッ!」

 と言って彼女はすっかり笑顔になって、

 「オトウト ニ イテミルネ!」

 とお腹にグーパンチをした。

 「うん」

 とだけ僕。

 

さっと背を向けて改札を抜けた彼女は、くるっとこっちへ向き返し、手のひらをピッとおでこに当てて敬礼のポーズ。そして

 「アリガト」

 と唇を動かすと、そのままこっちを向きながらゆっくりと後ずさり、胸の前で小さく手のひらだけ動かしてバイバイした。

 

彼女の後ろ姿が見えては消え見えては消え、新宿駅の人混みに飲まれて見えなくなってからも、しばらく僕は立ちすくんでいた。

 

それはもう温かいような、それでいて切なくて。

 

空を見上げる。

さっきまで見えていた月に少しだけ雲がかかりはじめ、僕は胸の温かい余韻を少しでも長く感じようと上着のボタンを上まで閉めてポケットに手を突っ込んだ。

 

(続

 

 

 

 

 

 

 

 

恋煩い(こいわずらい)ぬくもり

二日目の朝、ひどく寝坊した。

実はセミナー初日を迎えるにあたって、ほとんど睡眠が取れていなかったのだ。

 

 

BARの夜は長い。

会社から出向という形で赴任した無理矢理な人事ではあったけれど、BARの仕事を始めてみれば接客は楽しく、むしろ面白かった。本当は人見知りのくせに。

 

その晩は特に忙しく、薄明るくなる閉店ギリギリまでお客さんに付き合っていて、そのお客さまの後を追うように店から駅へ走り、始発に飛び込み、青空が広がる新宿のホテルへ直行すると、セミナー開始までの残された時間はわずか小一時間ほどだった。これが初日の朝。

 

 

 寝坊。。。「よく寝た。。。」と、まだ眠い目をこすり、スマホを横目で確認する。8:34のデジタル表示。セミナー会場まで歩いて5分もかからないけれどさすがに。。。と、はっきりしない頭でぐだぐだ考える。セミナーは9時からだ。「朝食」なんて悠長なことなどいってはいられない。自販機で買ったコーヒーを一気に飲み干した僕は、小走りでビルの谷間をすり抜け、最後は息を切らしながら笑う膝を両手で抱え、なんとかセミナー会場へと滑り込んだ。銀色に反射する鏡張りのビルの中、ポケットから取り出したスマホの液晶は8:57を表示していた。

 

席に着く。

 

辺りを見回す。

自然と彼女を探していた。

もちろん200人もいる会場で、よっぽど近くに座っていない限り見つけるなんてできないけれど。

 

 大きな溜め息をつきながら、不甲斐なさを呪い、がっかりし、その落ち込み具合は初日の朝を思い起こすほどだった。

ただ、そんな気持ちをよそにセミナーはどんどん進行してゆく。何やら昨日の宿題をみんなの前で発表するようだ。

続々と挙手しては発表する参加者を横目に、まだ頭のまわらない僕の意識はすっかり彼女へと飛んでいた。

 

恋だと本当は気付いていながら、そうじゃないと何故か否定している。好意がある状態と恋は別だと理性が否定しようとする。ただ思いだすのは、彼女の声だったり仕草だったり。

ただ隣に座りたい、話したい、笑顔がみたい、ただそれだけで、それは恋なのだろうか?などともう正解が出ているにもかかわらず、僕はそうではない理由をずっと探していた。

 

 

休憩

 

 

頭は支配されたまま、ただお腹は空いている。缶コーヒーでなんとか空腹を誤魔化しながら、無限に人が行き交う廊下を行ったり来たりする。やっぱりというか、無意識のうちに探してしまう。

 

スタッフから「あと5分」の声。僕はがっくりと肩を落とし、ゆらゆらと気持ちを引きずりながら会場へ向かうしかなかった。

 

「あっ!」

 

グレーのトレーナーと真っ白なスカートに身を包んだ後ろ姿に気づくまで1秒とかからなかった。

不自然な早足で彼女の後ろまで近づくと、昨日のお返しに肩を"ちょんちょん"した。

振り返った頬に人差し指があたる。驚いた顔はすぐに笑顔に変わり、今度は頬を膨らませて怒った顔を作ると、すぐにまた飛びっきりの笑顔を返してくれた。

 

「クルノオソイヨ」

「ギリギリダタネ ネボウシタヨ」

「ホラ ハヤクスワリナ」

 

ちょっと怒ったような「もおっ」て顔をしながら早口でまくし立てた。

ニヤニヤが止まらない。

「ごめんごめん」と彼女に困り顔を作って微笑みかける。

気づいてしまった。

僕が彼女を探していたように、彼女は僕を探してくれていたんだ。

彼女は「イィーーー」て怒った素振りを見せてまたクスクス笑う。

 

 

 

セミナーが始まった。

昨日の復習だ。

 

「ふたりでペアになって話し合ってくださーい」

 

スタッフから声がかかる。

ここで僕らは重大なミスに気づいてしまった。隣同士座ったけれどペアではなかったのだ。肝心なところでキューピットはやってくれる。ほんの少しだけの落胆。僕と彼女は横を向くと背中合わせになってしまった。

ただ、お互いの背中はわざとぴったりくっつけて。

体温を感じる。。。そんな不純な心が伝わったのか彼女が後ろ手で僕の太ももを叩く。それはまるで「やだあ」という声が聞こえてくるように。

 

僕は、相手のおじさんの懸命な考察を「うん」とか「そうですね」とか適当に受け答えしながら、背中越しの彼女を感じるため、いつになく神経を集中させていた。

彼女がペアになった相手の女性に一生懸命話している声。それは小学校の先生が生徒を怒るイライラの話だ。「ワカル?ワカル?」と、それはもう僕の口振りそのままで、おかしくておかしくて、後ろ手で彼女の太ももをちょんと叩いた。

「アッ   キコエタ?」

と、彼女はすぐさま振り返り、急に恥ずかしそうな顔で

「キカナイデヨ」

と、また僕の太ももをちょんと叩いた。

 

 

セミナーの中盤、横に座る彼女の足を小突き、小さい声で「お腹空いた」と言ってみた。朝からコーヒーだけで過ごしていたのもあるけれど。

しょうがないなあって顔。

椅子の下に置いてあったリュックからキャンディーを取り出すと、横目でチラッと合図する。声は出さない。そっと手を出すと、これはお国柄なのか彼女はわざわざ包み紙を剥がし、乳白色のキャンディーを取り出してポイっと手のひらに渡してくれた。「ありがと」と小さく口だけを動かす横顔を、クリッと横目で確認した彼女は目の動きだけで「どういたしまして」と応えくれる。心の中でアーンの口をしていたのは、感づかれてしまっただろうか。

 

 

お昼休憩

夕方からのセミナー

どちらもグループ行動がメインとなり僕らは離れ離れになった。運命のいたすらじゃないけれど、このがっかりする気持ちって。

 

 

そして二日目の最終セミナーが始まる。

一気に200人が会場へ戻るため、通勤時間の駅ホームかと思わせる混雑が毎回起こる。ざわざわとガチャガチャとパイプ椅子に着く大勢の受講者たち。

 

離れていた時間を取り戻すかのように、休憩時間ずっと一緒にいた彼女と、今度は大勢の人に紛れてもお互い見失わないようにと、ものすごい人込みを慎重に掻き分けて僕らは席を探した。

彼女は背後にぴったりとくっついて、両手の指先で腰の辺りのシャツをしっかりと摘みながらヨチヨチとついてくる。たまに急かしたりしながら。

 

 

セミナーは録音が禁止され、写真もだめ、それどころかメモすら許されない。スマホを見るなんて以ての外だ。

 

ただ、僕は今回こっそりと小さな紙きれとボールペンを用意していた。彼女と接近しているのが石川さんという女性スタッフにバレ始めているのを薄々勘付いていたからだ。

彼女の視線はとても冷たい。それゆえ得体の知れない予感がずっと背中に張り付いて拭えず、慎重にならざるを得なかった。

 

(続

 

 

 

 

 

 

 

 

恋煩い(こいわずらい)帰り路

彼女の肩と僕の肩と、そっと触れ合ったままセミナーは進行してゆく。

 

セミナーは「いま不満に思っていること」についてだった。

 

彼女は会社の中でチームリーダーに抜擢されていて、そのチームのスタッフ(彼女より年上ばかり)が、自分の言うことを全然聞いてくれないことが不満だという。きっと彼女は優秀な人材なのだろう。日本語が堪能な彼女は、国籍を超えて日本人のスタッフに指示をだせるのだ。ただ、周りのスタッフにしてみれば「この小娘が」のような感情にとらわれることも容易に想像できる。彼女のちょっとした気の強さに僕は何となく気づき始めていた。僕は、このセミナーの自分のグループ内で一緒だった小学校の先生の「先生が生徒を怒るイライラ」について話をしてあげた。

 

「『廊下を走っちゃだめだろ!』って先生は毎日怒っていて、でも注意しても注意しても生徒たちは気がつけば廊下を走るんだって。それで先生は常にイライラしているの。廊下は走らないようにって注意書きもあるのに、生徒は休み時間になるとワーっと一斉に飛び出して走りだす。注意しても注意しても直らない。先生はいっつもイライラ。何でイライラしちゃうと思う?」

 

「廊下は走っちゃいけないって決まりだから?」

 

不安そうに彼女が聞いてくる。

 

「そう。廊下は走っちゃいけない決まりがあるの。先生は決まりを守らない生徒が許せないんだよね。だからイライラする。」

 

「うんうん」と彼女。

 

「だけど先生の意識は『決まりを守らない』にとらわれ過ぎてないかな?先生は真面目で、正義感が強くて、本当曲がったことが大嫌いな人だと思うんだよね。でもそれって生徒に対して自分の正しいを無理強いしてないかな?自分は正しい、生徒は悪い、正しいことをしている自分は正義だ、生徒たちは俺の言うことを聞いていればいいんだ、俺は正しいんだから。。。そんな生徒への支配欲がどこかに隠れてないかな?」

 

「あっ」と彼女。

 

「先生は『決まりを守らない』に重点を置きすぎて、何で走っちゃいけないかを忘れてるんだよね。生徒が走って転んで怪我をするかもしれない、誰かとぶつかって怪我をさせちゃうかもしれない。。。先生は自分の正しさに溺れるあまり支配欲の欲が強くなり過ぎて、大切なものを失いつつあったんだよね。そう、つまりは生徒に対する愛情に欠けてたんじゃないかな?って思うんだ。もちろん廊下を走った生徒には注意するよ。うん、注意することに変わりはないんだけど、もしそこに決まりだけじゃなくって生徒への愛情があったとしたら、何か変わらないかな?」

 

僕は彼女と顔を見合わせてニッコリした。

彼女は目を見開いたまま笑顔になって、その茶色い瞳がくりくりして僕は「ズルいよ」なんてドキドキした。

「コウさんも、スタッフに対して愛情が欠けてることなかった?」

彼女は手の甲に爪を立てる素振りをして

「イィーーーッテナテタヨ」

と悪戯っぽく笑った。

 

 

 

初日のセミナーが終わった。

 

「マタアシタネ」

 

と彼女が手を差しだして、その手のひらはちょっとだけ冷んやりしていた。

 

握手をする。

 

手を握ってきた彼女は、僕の勘違いでなければ名残惜しそうに、名残惜しそうに僕の手のひらからスルリと白い手を抜いて

「バイバイ」

と言うと踵を返し、薄いベージュのワンピースに茶色のコートを羽織り、真っ白なリュックをダランと背負って出口へと向かい、やがてその姿は受講生の人混みに同化して見えなくなってしまった。

僕はその手のひらの余韻に浸りながらビルを出て、寒々とした新宿の街へ颯爽と踏み出した。街の灯りはキラキラと輝き、その眩しさを遮るようにコートの襟を立てた僕は、何故か大切にポケットの中へ手をしまっていた。

 

(続