さよならは約束だらうか

もう一度会うときまでさようなら

恋煩い(こいわずらい)

大切な週末だったというのに、会社の命令で行かされた三日間のセミナーを終えた僕は、何故かいま新宿から自宅に向かい暖房の効いた電車に揺られている。

サラリーマンである自分に会社の言いつけを断る気概など微塵もなかった。いや、そんな勇気は鼻からなかったのかもしれない。

ただ、もし、ほんの少しでも僕に勇気があったのなら、今ごろこんな風に物思いにふけって困ることなんてなかったかもしれない。

 

 

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11月の初め。金、土、日と三日間、会社の命令により僕は新宿のビジネスホテルに幽閉された。まあそれは大袈裟だとしても、そのくらいの勢いだったことに間違いはない。何故ならそのホテルから歩いて数分の場所にある「自己啓発セミナー」へ通うことになったからだ。

まさか五十歳になってまで自己啓発セミナーに通うとはなあ。。。と、面倒くささと遣り切れなさとで、僕は金曜日の朝から気持ちが沈んだままだった。

それはもう寝覚めが悪いことにも増して食欲を減退させてゆく。僕は焼いたトーストの半分だけを冷めたコーヒーでモヤモヤする胃へと流し込み、急いでホテルを飛び出した。

 

新宿の朝は肌寒かった。ビルの谷間から見上げた空は青く晴れ渡っていた。僕は恨めしそうにビルを見上げたまま「仕方ない」とだけ呟き、気持ちを切り替えることにした。

グーグルマップを頼りに現地に着き、ビルのエレベーターにいそいそと乗り込んだ僕は「10階」を押して下を向く。エレベーターは最新式なのか音もなく、僅かに心を締め付けたかと思うとすぐさま到着のチャイムを鳴らした。

会場はかなり広いオープンスペースだ。そこにうごめく人、人、人。このスペースに200名近くが無理やり押し込められるのかと、そんな大規模なセミナーだということを実感した僕は、ちょっと怖くなり始めていた。それはもう、知り合いも誰もいないセミナーに突然放り込まれたわけであって、正常な人間であれば少しくらい不安になってもおかしくないだろう。

 

僕は会場を見渡した。そこにはテーブルがなく、パイプ椅子だけが並べられていた。

 

「ははーん」と僕は理解し始めていた。これは、講師がホワイトボードに簡単な説明書きをしながらコーチングしていく今人気の"アクティブラーニング"という手法だろう。さすがアメリカで開発されたセミナーだなあと、僕はふんふんとひとりで納得していた。それは不安な心を紛らわすための行為であると、なんとなく自覚しているけれど。

アクティブラーニングとは、隣同士、あるいはグループになって、ひとつの物事を話し合い探求する参加型セミナーで、その中で参加者はひとりひとり自身に向き合ってひたすら心の中を探求するという仕組みである。

なるべく多くの人と会話して自身の考えを深めて欲しいという主催者側の意向だ。

「会場の席は特定の場所ではなく、毎回別々の場所に座ってセミナーを受けるようお願いします!」

とコーチの方から説明を受けた。

「はいはい」

と僕。

実はこの事を僕はセミナーに参加する前から知っていた。紹介というか命令を下した社長から

 

「席は自由だけど、隣同士で話し合ったりするからなるべく美人さんの隣を狙って座ったほうがいいぞ。目の保養になる」

 

と言われていたからだ。

 

 

 

 

そうこうするうちに、いよいよセミナーが始まった。

僕の隣には何やらどこかのビジネスマンが座っている。席の確保を失敗してしまった。両隣がおじさんだ。いやもちろん自分もおじさんなので文句は言えないし仕方ない。逆に「おじさんだ」と思われているに違いない。僕は真面目にセミナーを受講した。そう、心の持ち様なのだ。セミナーの内容も同じく心の持ち様について説明している。

ただどちらにしても退屈である。会社から研修費用が支給されていることもあって、それ相応のやる気しか出ないのは致し方ないだろう。

一日でセミナーは4回、1回3時間のセミナーだ。実に長い。挟まれる休憩時間は1回30分。9時から始まって、お昼休憩は午後3時半過ぎからだ。その休憩もグループ行動で、グループリーダーと呼ばれるスタッフがついて回る徹底した管理体制だ。めちゃくちゃ息が詰まる。

「ほとんど洗脳だな」

などと僕は思い始めていた。

2回目のセミナーが終わり、昼休憩で息の詰まる食事を終えた僕は、ゆっくり会場に戻ろうとしてハッとした。パイプ椅子に座るひとりの可愛らしい女性を発見したからに他ならない。僕の脳裏に社長からの言葉がよぎる。

「なるべく美人の隣がいいぞ」

そうだ。

僕は迷わずその女性の隣に座ることにした。

彼女は20代と思われ、AKBのナントカさんに似た茶髪ロングの美人さんだった。あんまりじろじろ見ていたら不審者なので、それでも僕はチラチラと彼女の横顔を眺めながら

「良い席とれたぞ」

と内心ホクホクしていた。

 

 

初日3回目のセミナーが始まる。

スタッフから

「隣の人とペアになって。今のことについて話し合ってください」

と声がかかる。

待ってました!と心の中でガッツポーズの僕は、そんなことを悟られないように横を向き、彼女とご対面した。きれいな茶髪ロング、クリっと色素の薄い瞳と白い肌、華奢な肩、小さな胸のふくらみ。

 

「ハジメマシテ、コウ(高)トイイマス ヨロシクネ」

 

 

彼女は中国から日本に来た留学生だったのだ。

その独特な中国人訛りというかイントネーションに僕は一瞬でやられてしまった。完全に変態級の笑顔になっていただろう。僕は

 

「よろしくお願いします」

 

と、ぎこちなく言った。

ところが彼女はそんな僕に対して信じられないくらいの笑顔で応えてくれたのだ。まるで天使である。ただ、急に彼女の顔が曇ってしまった。彼女にはこのセミナーが難しく、内容がよく理解できてないらしいのだ。

 

「ヨクワカラナイ」

 

と彼女はちょっとだけ顔を寄せて話してくれた。これに応えられる男は世界中探しても、いま僕しかいない。

200人もいる会場で、ざわざわと話し声が飛び交ううるさい会場内で、僕と彼女はちょっとだけ肩を寄せ合った。

僕はいま得ている知識を全てフル回転させて、彼女にわかりやすいよう例え話も織り交ぜながら丁寧に説明した。不安そうな顔をする彼女を落ち着かせながら、何度も何度も説明した。だんだんと、不安そうな彼女の顔に笑顔が浮かんでくる。そして、

 

「ワカタヨ」

「コーチヨリセツメイウマイネ」

「タカハシサンノトナリナッテ、ホントヨカタヨ」

 

とグーを出してきた。

僕もすかさずグーを出す。

彼女のグーと僕のグーが少しだけ触れ合って、その瞬間彼女は悪戯っぽい笑顔で僕を上目遣いにみつめながら、最高の笑顔をみせてくれた。

 

お互いが、この広い会場で200人も見知らぬ人に囲まれて、誰も知り合いがいない不安を抱えていたのだ。彼女の言葉のハンディを考えれば尚更だ。これを''つり橋効果''っていうんだろうなとも思う。けれど、もうお互い大人であっても、それを感覚で悟っていても止められなかった。僕らはあの瞬間確実に求めあっていた。

 

一気に親密になった僕に、彼女はセミナー中でも小声で質問してくる。スタッフに気づかれないよう左手の小指で僕の右足をちょんちょんして、そして頬をちょっとよせて。

 

まるで中学生の初恋だ。スタッフに怪しまれてはいけないという意識が僕らに火を点ける。けれどもコソコソと仲良くなった僕らに、無情にもセミナーは終わりを告げる。それはもうあっという間の3時間だった。僕らはお互い、

 

「バイバイ」

 

と告げて会場の外へ出た。あっという間に彼女は200人中に埋もれてゆく。

 

休憩。

 

休憩時間中、会場から一旦外に出なくてはならない。そうして休憩後、再び会場に入りめいめい席を探して座るのだ。

休憩が終わり会場に戻り、僕は適当に席に着いた。

おじさんを嫌ってか隣になかなか人が座らない。「そりゃそうだ」と内心微妙な心持ちの僕。

 

そんな僕の肩に突然"ちょんちょん"がきたのだ。

 

「マタキチャタヨ」

 

と悪戯が見つかったような上目遣いで僕を見る彼女。あたかも"偶然です"みたいな顔をして僕の横にしれっと座ったところで初日最後のセミナーが始まった。

パイプ椅子はきっちり並んでいて、でも僕らのパイプ椅子はとりわけくっついて並んでいて、彼女の肩と僕の肩は少しだけ触れ合っていた。お互いの意思を確認するように。

彼女は200人も人がごちゃごちゃしている中で、僕のことを探してくれていたのだ。

 

(続

 

 

特別な朝(後編)

予選会当日の朝は早い。早朝5時過ぎにPAなど音響機材が搬入され、マイクチェックなどを行なう。6時から出演するバンドのリハーサルが20分ずつくらい、この年の予餞会は僕らを含め合計5~6バンドの有志演奏が行われた。軽音楽部の後輩グループ数組と別の同級生グループ(彼らは浜田省吾を歌う硬派バンド)そして僕ら「喜楽スペシャル」のサザンである。

「うぃーっす」と僕らは口々に声をかけ、ハイタッチをし、凍えた(笑)

6時。まだ2月で外は真っ暗。気温も2~3度だろう。とても楽器なんて弾けたもんじゃないけれど、選ばれし僕ら有志演奏軍団は体育館2Fにある準備室の小さなストーブで暖をとっていた。

僕は6時過ぎ「ちょっと行ってくる」と最寄駅に自転車を飛ばした。同じ部活の後輩(彼女)を迎えに行くためだ。

早朝の凍える街などものともせずに、僕はペダルを踏みしめ、そして風になる。

駅に着くころにはもう太陽が光を放ちはじめ、息を切らせた僕はブレーキを鳴らしながら駅の階段下で手を振る彼女を眩しそうに見つめ、そして頷いた。

 

彼女との二人乗りもこれが最後かなあ。。。などと思いながらゆっくりペダルをこぐ。彼女は僕のコートのポケットに手を突っ込み、背中に頬を寄せていた。

 

 

 

1年生のときも、2年生のときも、この予餞会の日の朝日を感じてきた。一年の中で一番好きな朝だった。冷たく頬をなぜる空気がどんどん集中力を高めてゆく。吐く息は白く、その息遣いだけが静かな朝にリズムを与えてくれる。

 

 

 

彼女は僕のおなかをぐりぐりして「ちょっと太ったんじゃないの?」なんて呑気に声をかけてくる。

完全に意識が飛んでいた僕は我にかえり、勢いよくペダルを踏んだ。彼女はしっかりと僕に抱きつき、ぴったりとひとつになった。

 

 

 

 

 

 

話しはいよいよ佳境である。予餞会。ついに僕らの出番がやってきたのだ。

 

イントロダクションとして吹奏楽部の部長でもあるケンちゃんと、桶川高校のバスドラムと云われるほど誉れの高い田中くんが打楽器(ボンゴとドラム&サンバホイッスル)で盛り上げる。そこからの気分次第で責めないで~♪ C調~♪ 曲の合間にケンちゃんが今日までのいきさつを話して笑いをとる「ボク、今日ほんとはテストなんですよ・・・爆笑」

そこからの栞のテーマ体育館の3年生が一緒に歌っている。そして名目上最後の曲であるいなせなロコモーション超ロックバージョンへ!

曲のエンディングでメンバー紹介をする。ここまでは予定通り。その後アンコールの拍手までは仕込みだ(笑)予餞会実行委員の2年生も仕方ないなあという顔で続行を認める。

「すいませんねえ」と悪びれもせず、ギターの寒河江くんはいとしのエリーのイントロを奏ではじめた。サザンのライブか!と思わせるほどの歓声があがる。

このエリーは、途中アカペラを含む壮大で、なおかつハードな曲として僕がアレンジをして3年生を泣かせにいった。演奏している僕らもぐっとくる仕上がりだ。

曲のエンディング、緞帳(どんちょう)を降ろす実行委員。ここまででもう30分近く演奏している。ギターはエンディングが終わる前にYaYaのイントロを弾きはじめる。ごり押しだ。体育館は歓声とどよめきがごっちゃごちゃだ。ざわつくステージ袖で、緞帳を降ろすボタンを挟み実行委員と僕らの前に演奏した浜田省吾軍団が対峙している。すまん・・・そんな姿を横目でみながらのYaYa(あの時を忘れない)

 

なんとか半分降りた緞帳のまま演奏を終えると緞帳は降ろされ、実行委員の「ありがとうございました」の声がマイクで流れた。

 

ここからだ

 

僕とギターの寒河江くんはアイコンタクトでステージの外へ走り出す

スティックのカウントが聞こえた

 

LALALA~LALALA LALALA~♪

 

勝手にシンドバットのはじまりだ

体育館内は絶叫に近い歓声で埋め尽くされている

完全に緞帳が降りた中 体育館のステージ下に飛び出したギターとベース そして緞帳の裏側で実行委員ともみ合っていたケンちゃんもなんとか外へ

ドラムとキーボードはステージ上から動けず緞帳を挟んでの演奏になってしまったが止まらずに続けてくれている

 

 

 

 

みんなの顔が見える

これが三年生最後のバカ騒ぎだ

 

 

 

 

緞帳は降りたままだったけど、ぐっちゃぐちゃになりながら演奏をぶっ続け、そして僕らの高校生活は幕を閉じた。

僕らは演奏をしていたので知らなかったのだが、後から聞けば緞帳の向こう側はそりゃあ大変な騒ぎになったらしい。実行委員も意地がある。おいそれと三年生の暴挙を許すわけにはいかない。その後の出し物で控えている生徒もいるわけで、謝恩会の時間もめちゃめちゃになっただろう。本当申し訳ない。浜田省吾軍団が盾となって演奏を止めさせず、もみ合い、怒鳴りあう。

そんななか、もみ合う生徒たちを一喝して治めたのは他でもない、体育教師の折茂先生だった。

 

「こいつらを、どうかやらせてやってくれ」

 

と実行委員にお願いをしてくれたのだ。

嘘か本当か、その光景を見ていた細田先生の目に光るものがあったとかなかったとか。

 

 

その後の僕らは何のお咎めもなく、心配した軽音楽部も存続、無事卒業できた。

もはや伝説に近いこの話が話題になり卒業した僕たちは、その後大学の学際に呼ばれたりした。そして怒涛のサザン27曲ぶっ通しライブをやることになった話はいつの日かまた。

 

 

 

特別な朝(前編)

その昔バンドブームなるものがあった。これはその1983年当時のお話。

僕が高校生だったおよそ30年前は、エレキギターを弾くなんざ不良のやることで(笑)周りの大人たちから白い目で見られ、特に親からは「あんたそんな蓮っ葉なこと止めなさい」*1などと言われたり。

それでも当時世の中はヘヴィーメタル全盛期で、ヴァンヘイレンに憧れ、またある人はマイケルシェンカーに憧れ、そんなバンドブームの渦中にあった僕と友人は迷わず軽音楽部の門を叩いていた。何故なら軽音楽部だけがエレキギターを弾いてもよい部活だったのだ。

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とはいえエレキギターを使っていいのは夏休みだけ(文化祭の練習という名目)で、それまではフォークギターを真面目に弾くという"仮の姿"でおとなしく身を隠していなければならなかった。何故そんな厳しい掟があったかと云えば、その前身であるフォークソング同好会を遡ること数年、先輩方が「僕たちは清く正しい高校生です」と散々繰り返しアピールしてようやく軽音楽部に昇格できたという重い歴史があるからである。部としての活動はまだ二年しか経っておらず、肩身の狭い状況下で先生からの「お前ら何か問題起こすなよ!」的な冷たい視線を浴びながら、僕ら部員たちは日々ご機嫌を伺っていた。

ということで、僕と友人はヤマハとモーリスの安いフォークギターを買って、仕方なくフォークギターの練習に勤しんだ。「みんなで歌おう歌謡曲」みたいなコード譜が載ってる本で長渕剛とか、松山千春とか練習したわけだ。

 

 

 

大体目の敵にしているのは、日体大出身の体育教師で「細田先生」と「折茂先生」であった。

生活指導も兼ねているとあって、細田先生はホームルームの時間も竹刀を手放さず、その竹刀で床を「バシッバシッ」と叩き鳴らしながら生徒を威圧していた。今なら大問題だろうが当時はそれがまかり通る世の中だった。

折茂先生は教師になってまだ2~3年目の若い先生で、初めてサッカー部の顧問という大任を背負い張り切り過ぎて無駄に厳しかった。先生の下着が女性もののパンティー(ぴったりフィットして動きやすいという実用面からだと)だということをサッカー部の友人からこっそり打ち明けられ、僕らはコソコソと陰でおちょくっていたけれど、なかなか面と向かっては言いにくい(当たり前だが)事案であり、別の面でビクビクしていた。馬鹿丸出しの高校生である。

 

夏が来て、僕ら部員たちはエレキギターを手に取りゾンビの如く生きかえった。ビートルズを演るもの、ACDCやオジーオズボーンを演るもの、山下達郎ユーミン浜田省吾佐野元春白井貴子松原みき、など多種多様な音楽に僕らは身を委ね、次々と消費していった。カシオペアやスクエアなど高校生らしからぬテクニックに溺れたのもこの頃だ。まだまだ先輩が作るバンドのお手伝いをしなければならなくて、なかなか自分の思ったことはできないのだけれど、それでも音が漏れぬよう締め切った教室で部員たちはみんな不健康な汗を流し続けた。音が校庭に零れれば、件の体育教師がすっ飛んできて抗議されてしまうからだ。

 

それでも、

それでも僕らの汗だくの青春は揺るぎなく、間違いなくここに存在していた。

僕らはめくるめく夏休みの真っ只中を、とにかく無我夢中で突っ走っていったのだ。

 

 

時は流れ、僕は三年生になった。

先輩のご意向を伺うことなく自由にできる日がついにやってきたのだ。

僕と友人の5人は文化祭で「サザンオールスターズ」を演奏することにした。友人たちから是非やってくれとのリクエストがあり、それにお応えしようと決めたのだ。バンド名は「喜楽」*2とした。

当時は「ふぞろいの林檎たち」というドラマでサザンの曲が次々ヒットして、当然ながらセットリスト*3は新曲の「ミス・ブランニュー・ディ」を始めに「ボディスペシャルⅡ」「虹色THEナイトクラブ」などドラマから選曲、ファンなら垂涎モノのナンバーを多めにした。もちろんいとしのエリー」「勝手にシンドバット」は欠かせない。

僕らのグループは自分で言うのもなんだけど、その当時超高校生級のテクニックを持っていたと思われ、なんなら今プロとして音楽活動を続けているメンバーもいたりするくらい。当時の音源をお聴かせできないのが誠に残念なのである(言うのはただである)

 

もちろん文化祭は大成功に終わった。

 

有終の美を飾った僕らは三年生なのでそのまま部活を引退し、惜しまれつつバンドは解散したのだった。

 

そして僕らは受験に飲み込まれる。

ギタリストの寒河江くん(現在YU SAMMY / 舞台の音楽監督などで活躍中)とキーボードの女の子は大学へ、僕は調理師学校へ、ドラムの田中くんは理容学校へ進学が決まっていた。ボーカルだった川島くん(僕らはケンちゃんと呼んでいた)だけが医療系の専門学校を受験するということで試験日(2月中旬)まで勉学を励むことに。

 

 

年が明けると僕らはほとんど学校に行くことがなく、車の免許を取得するため自動車学校で時間をつぶしていた。

学校の行事も卒業式と予餞会。。。いわゆる「三年生を送る会」という催しものを残すだけ。

その予餞会で「夏にやったバンドをもう一度観たい!」という声が、同級生から多数湧いてきたから驚きだ。進学が決まった同級生はホントいい気なものである。

まあ僕らも何だかんだ言いながら嬉しさは隠せない。。。夏にキーボードを弾いていたくれた子は歌がからきしダメだったので、新たに2年生の歌の上手い後輩を引き入れ、バンド名を「喜楽スペシャル」として僕らは復活することになった。受験が終わらぬケンちゃんをなだめすかしてやっとの再結成である。ケンちゃんも「当日までには必ず合格するからさ!」と言ってくれたのだ。言わせたという説もある。

 

''三年生が三年生を送るバンド演奏''に若干の無理があるものの、僕らは最高のセットリストで挑むことにした。与えられた時間はわずか20分。これは他の出し物があるため絶対に守らなければいけない時間配分である。

僕らが予定した曲目を順に並べると

気分次第で責めないで→C超言葉にご用心→栞のテーマいなせなロコモーションいとしのエリー→YaYa(あの時を忘れない)→勝手にシンドバット(全員ソロあり

という40分くらいのセットリストだ。無理は承知である。

もちろん管理委員には上記のうち4曲ほどしか伝えていない。ベースを担当する僕と、ギターを担当する寒河江くんはシールド*4を使わず無線で音を飛ばす装置(ワイヤレス)を準備した。万が一の緊急事態も視野に入れていたのだ。そう、強行突破しかない。

そうして僕らは練習を積み重ねた。同級生を喜ばせたい一心で。

 

 

 

予餞会1週間前に事態は急変する。

 

 

ケンちゃんが次々と受験に失敗したのだ。ケンちゃんに残された専門学校の試験日は、予餞会当日ただ1日だけになってしまった。

僕らは悩んだ挙句、あろうことかケンちゃんを説得し始めた。人の一生が、ケンちゃんの人生が掛かっているのを承知でケンちゃんに受験を諦めろと。。。

こたつに入り、ケンちゃんを囲み、今までの僕らの歴史を滔々と語り「二度とないこの瞬間を僕らは台無しにしていいのか!」とケンちゃんを追い詰めた。今思えば無責任極まりない行為である。

 

最終的にケンちゃんは「俺、やるよ」と声を絞り出し、みんなで泣いた。本当人間として最低であった。(ちなみにケンちゃんは親に内緒で学校に登校して歌い、親には試験に落ちたと嘘をつき、同じ専門学校の2次募集で無事合格したのだった)

 

そして当日の朝を迎えるのである。(続)

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*1:蓮っ葉・・軽薄な、あるいは軽率なという意味

*2:ドラムの田中くんの実家のラーメン屋から拝借

*3:その日の演奏曲目

*4:楽器本体とアンプ(スピーカー)を繋ぐコード

二学期を迎える君へ

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高校野球が終わり、鳥人間コンテストが終わり、24時間TVが終わり、いよいよ二学期が目前に迫ってきた。

 

この時期「いじめ」がある学校へは戻りたくない!行きたくない!って子どもたちがいるという。中には思い詰めてしまい、命を絶ってしまう子も。

哀しい現実である。

 

 

僕自身「いじめ」のような体験がない。

 

もしかしたら鈍感すぎて気がついていなかったのかもしれないけれど、無視をされるとか危害を加えられるとか、そういった経験がなかったので、きっといじめられていたなんてことはなかったのだろう。

ただ極度の人見知りで、かなりの時間をかけないと心を開くことができない寡黙な少年であったことに間違いはない。最近の僕を知る人には信じられないかもしれないけれど、いまでも初対面の人にはかなりの無理をして話をしている。接客業という職業柄"仕事"と割り切って別人としての自分がそこにいたりするのだ。

 

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その昔、二学期に「学校へ行きたくないなあ。。。」って気持ちが少しだけあった。小学生から中学生くらいまでかな。中学1年生のとき、僕はバスケ部だった。けれど、来る日も来る日も先輩に怒られてばかりで、2年生になる頃とうとう僕は我慢できずにバスケ部を辞めてしまった。その後は部活もなく、ただ家に帰ってTVを見る。そんな流れでの2年生。夏休みは林間学校もあったけど、ひとりでいることが多くて、この2年生の夏休み後の学校は、本当に行きたくないピークだった。単純にクラスメイトとの距離感が分からなくなっていたのと、それを補おうとする自分の面倒くささが同時に襲ってきたのだ。

 

ただ僕は、引きつった作り笑顔と持ち前の楽天的性格が功を奏して、なんとかやり過ごすことに成功した。なにより学校へ行かないことで親に怒られるのがものすごく怖かったことと、だったら別にひとりでもいいやって単純に割り切れたことが幸いしたのだ。まあそのぐらい、我慢できると。

 

僕は本を読んだりTVを見たりして、その中に自分の居場所を発見した。

 

 

想像の世界は僕だけの世界だったのだ。

 

 

ラジオを聴きだしたのもこの頃だ。せいしゅ~んお~おおど~お~り~♪を聴き「天才秀才バカ」を聴き、聖子ちゃんやヨッちゃん、「マッチとデート」なんてのも聴いた。もちろん「青春キャンパス」は外せない。あぁ「スネークマンショー」も。そして、さだまさしさんの「セイヤング」における「三国志」の歴史漫談が毎週楽しみで仕方なかった。土鈴をチリンチリンと鳴らし「〇〇さんいらっしゃい」というくだりも楽しかった。

極めつけは笑福亭鶴光さんの「オールナイトニッポン」 多感な少年たちはこの番組を聴くのが楽しみで仕方なかったのだが、なにせ深夜1時からで、一生懸命眠い目をこすり、テーマ曲が流れ、「提供は、ブルボン、BVD富士紡。。。」とかこの辺で力尽き、はっと気がつくと演歌が流れていたこともしばしば。

 

 

 

 

僕は、学校がしんどくて、いじめが怖くて、友だちなんていなくって、そんな悩みに圧し潰されそうな君に「ラジオを聴いてごらん」と言ってあげたい。

なんたる人任せな対処法かもしれないけれど、ラジオは"ひとり"を快く迎え入れてくれるのだ。聴くだけでいい。もちろんラジオの各コーナーに投稿するのもいいけれど、まずは聴くだけでいい。TVよりもラジオかな。本を読むのもいけれど、人の声は殺伐とした君の心を温めてくれるはずだ。

何よりパーソナリティーは君に話しかけてくれる。君だけの空間だ。それは脳内だけかもしれないけれど、誰にも危害を加えられないし、なんなら世の中のためになる情報だって、いっぱいラジオに詰まっている。

もし本当に酷いいじめにあっていて、毎日がツラくてツラくて、もう生きているのも嫌になるくらいだったら、ラジオを聴いてみよう。無理して学校になんか行かなくたっていいのだから。

毎日毎日雨が降り続ける中へ、雨合羽を着込んで傘を差して、それでもびしょ濡れになって、一生懸命防御する君は確かに間違ってはいないけれど、そんな毎日ってやっぱり普通じゃないよ。

そして、僕は君に教えてあげたい、

 

 

 

雨の降らない世界だってあるんだ。

 

 

 

雨合羽なんていらない。傘なんていらない。

雨なんて降らないのだから。 そしてそんな世界は君のすぐそばにあったりする。

 

 

本当に思い悩んでいる子は友だちに話すことはない。だって恥ずかしいから。

本当にツラい毎日を過ごしている子は親に打ち明けたりなんかしない。だってそんな子だって思われたくないから。

ましてや先生なんかに相談するわけがない。

 

 

 

そんな恥ずかしいことするくらいなら死んだほうがマシだから。

 

 

 

友だちや親や、なんとか先生にツラい状態を打ち明けられた子は助かるけれど、我慢強く、意思が強靭な子ほどピンと張った糸がいまにも切れそうだったりする。それが君だ。

そんな君はひとりで解決するしかなくって、だから僕は君に「ラジオを聴いてごらんよ」と言いたかった。

未来がどうとか、そんな先のことはわかりっこない。だけどいまは、やり過ごそうよ。さあ、ラジオでも聴いて。

 

 

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僕らの働く理由

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僕は高校生のころバンドなんてものに明け暮れていて、進学やら就職やらとか、そんなことは全然考えずに来る日も来る日も楽器と戯れる毎日を過ごしていた。漠然と、大学に行ってもやることないなあ。。。何かモノを作る仕事とかしたいなあ。。。適当にバンドとかやっていたいなあ。。。などと、今思えば本当だらしない学生生活だったのだ。

体たらくな僕は、勉強しないで入れる調理師学校(ミーハー気分もあって有名な服部校長のいる代々木の有名校)に進学し(この話はまた別の機会に)卒業すると同時にフランス料理屋で働くことになった。今じゃ考えられないけど就職するのに苦労することなんか全然ない時代だったんですよね。

そのお店は僕が入る数カ月前にOPENしたばかりで、ムッシュと呼ばれる竹内さん(当時若干33歳・旧大宮市役所前の南欧料理店で今も腕を振るっている)を慕って集まった腕利きの料理人が揃うバリバリのフレンチだった。僕が入ると時を同じくして、八丈島から親戚を頼りに上京した高卒の青年と、ホテルを1~2年で辞めてきた流れ者の菊地さんと清水さん。あと住み込みという条件だけで青森から紙袋ひとつで上京してきた高卒の青年が合流して、いよいよ5人が使いっぱしりとして働くことになったのだった。

 

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働くといっても八丈島と青森の18才コンビ、僕が19才、菊地さん20才と清水さん21才の5人だ。最初の数ヶ月は遊び半分仕事半分のような、学生ノリのまま勢いで毎日を面白おかしく暮らすことしか考えていなかった。僕らは浅はかで、陽気で、馬鹿丸出しだったのだ。

お店は「寮」と称して平屋建ての家を一軒借りていた。6畳二間の2DK。そこに僕といっこ年上の菊地さんを除いた八丈島、青森、清水さんの三人が暮らすことになった。

店は9時に出勤した僕ら小僧たちが仕込みを行い、10時過ぎに河岸(市場)から腕利きの先輩が肉や魚を仕入れて現れる。その後にムッシュが来て買ってきた材料を見てメニューを考え、11時半よりランチが始まるというルーチン。15時から17時までは休憩。そして夜は23時まで営業する毎日だった。

23時過ぎに僕らは仕事を終え、南銀(南銀座と呼ばれる飲み屋繁華街)に繰り出し、浴びるように飲んで酔っ払い、カラオケを歌いまくり、そして寮になだれ込んだ。週に3~4日はそんな日を繰り返していた。全くもって学生ノリそのままなのである。

 

 

ある日小僧の八丈島が「寝ない選手権やろうぜ!」と言い出した。

 

 

若かった僕らは気合を入れてこの一大イベントに取り組むことになった。

まず早朝ゴルフの打ちっぱなしを6時から7時に。力あり余る僕らは手に豆を作りながら200発くらいゴルフボールをぶちかますと、今度は裏のテニスコートで時間ギリギリまで早朝テニスを楽しんだ。アルバイトの可愛い女の子を早朝から呼び出し、そのパンチラを拝むことも決して忘れずに。そして9時から仕事。中略 23時過ぎに仕事を終えた僕らは街に飛び出し大酒を飲み、そこでナンパした女の子とカラオケで大騒ぎして歌いまくり、ヘロヘロになった身体を引きずり一旦寮に戻り、そしてゴルフの打ちっぱなしの準備をするのだ。もうM体質極まりないことこの上ない。そしてギンギンに充血した目のままゴルフボールを打ちまくり、ふらふらになりながらテニスをして、この日はバイトの子が来ないからと隣のコートをみたら、老夫婦の壮絶ラリーに仰天したりして、そうして僕らは朧げな意識のなか仕込みを始めるのだった。デジャブである。すでにこの時点で27時間。カッチコッチ…

肉体を酷使して、仕事ではコキ使われ、そしてガラガラ声と二日酔いの僕らは無駄に睡魔と闘っていた。それはもう学生の徹夜とは大違いだった。包丁を持つ右手と野菜を持つ左手、おでこを手前の壁にくっつけた三点倒立で寝ていた八丈島が最初に脱落した。次に青森が閉店後の床で棒になっていたのを発見。仕方なく残った三人で街に繰り出したものの、最初の店でビール片手にみんな撃沈してしまった。およそ42時間くらいだったか。その寝顔が天使のようだったかどうだかは知る由もない。

 

 

アートな写真を撮る会も開催された。

 

 

閉店後、僕らは仕入れで市場に行く用の社用車に乗り込み、埼玉の田舎町から晴海ふ頭までドライブした。片手に「写ルンです」を持って。

夜中じゅう僕らはモノクロで写真を撮りまくった。

突っ走る車の中から東京の街を切り取り、大声で尾崎を歌い、運転する八丈島をよそに、僕らは缶ビールをかっ喰らった。

肩車の肩車とかして「トーテムポール」とか写真に収め、無駄にジャンプしたり回転レシーブをキメた写真も撮ってみた。もちろん海をバックにマドロス風の写真も欠かせない。

帰り道、大通りで「ドリフトしたい!」という八丈島が猛スピードから急ブレーキをかけて車が1回転したときは、僕らは静かに顔を見合わせた。正直漏らしていたのだ。

「小便!小便!」

一番年上の清水さんはそう言って車から降りて走りだした。僕らは前屈みになってその後を大急ぎで追っていった。

そうして僕らは並んで立ち小便をして、明るくなり始めた朝にゆっくりと飲み込まれていったのだった。

清水さんは、

「俺、料理作りながらアメリカ大陸横断したいな」

と、ぼそっと呟いた。

夜と朝の境界線に立っていた僕らは、何者になるために今を生きているのかを、その時少しずつ考え始めていたのかもしれない。働くということが、それはまだ何だかわからなかったけれども。

 

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さよならは約束だろうか

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【強制送還】国外退去処分が下されると五年間は入国許可が下りない。

不法入国、密入国して詐欺行為を働いたり、薬物を持ち込んだり、悪いことする外国人を排除することもあって、必要な法であることに間違いはない。

 

 

 

 

 

 

レストランで店長をしていたころ、僕はひとりの中国籍男性をアルバイト採用した。なんでも語学留学で日本に来ていて、アルバイトで学費を少しでも賄いたいという。

僕自身こういう人情的な事情に弱く早速採用を決めたのだけど、日本語は上手に話せるし、中国人にありがちなグイグイくる感じもない物腰の柔らかい好青年だったので、普通に採用基準は満たしてたわけで。。。

彼の名前は「辛」さんといい、アルバイトのみんなは「シンさん」と呼んですぐに打ち解け合った。はにかんで、ちょっと照れたような表情が彼の持ち味であり、優しい人柄も感じさせてくれた。

シンさんは早速キッチンで働くことになった。

 

 

 

当時慶応大学に通う才女がアルバイトにいた。

ユウコという。

小柄な彼女は決して美人の部類に入る容姿ではなく、言うならばブスメイクをした眼鏡の仲間由紀恵さんのようだった。ただ彼女の名誉のために記しておけば、角度の付いた尖ったフレームの眼鏡を外すと、目が悪い人特有の潤んだ瞳がキレイだったことを僕だけは知っている。

彼女は頭の回転が速く、行動力もあり、キッチンで働く年上の男子大学生にだってズバズバ物言うことができた。嫌がられながらも規律を重んじる重鎮として40名ほどいるアルバイトの中でも彼女は特に異彩を放っていた。知っている人ならわかると思うけど、彼女はサンマルクというベーカリーレストランでディシャップ(キッチンにオーダー伝票の指示を出す係)ができ、100人がバラバラに食すコース料理のタイミングを自在に操れる力量を会得していたのだ。男勝りとはこの事を言うのだな。。。なんて思っていた。

 

 

 

そんな彼女が恋をした。

 

 

 

慶応大学に通い、第二外国語で中国語を専攻していた彼女は優秀で、簡単な中国語の会話はもとより、書くこともできたのだから好意を抱くのは当然だったのかもしれない。

だいたいシンさんが日本語で困ると彼女がサポートするパターン。僕がシンさんに「野菜の在庫を調べといて!」と頼むと、シンさんが手にした紙切れのメモにはキユリ2本・ナース5本などと書かれていて、それを見た彼女は「シンさんそれじゃ看護婦さんだよ!」なんて言って大笑いしたものだ。そんなとき(けっこう頻繁に言葉のズレ事件は起こった)シンさんは、いつもはにかんだ笑顔で照れていて、その優しい笑顔に彼女でなくても好意を寄せていた女の子はいたかもしれないなあと今頃気づいてみたり。

 

行動力があり物怖じしない彼女も、それがいざ自分の恋心だと知るとなかなか切り出せないもので、見ているこっちは歯痒いばかり。明らか彼女はシンさんに"好き好きビーム"を発射しちゃってるんだけど、シンさんは照れ笑いばかり。それでもシンさんは彼女のことをいつの間にか「ユウちゃん」と呼ぶようになっていた。

僕はコトあるごとに「もうキスしたのか?」とか彼女に愚問を投げつけて怒られていたけれど、彼女とシンさんは恋人同士というのには遠く及ばないプラトニック中のプラトニックな関係で大満足のようだった。

 

 

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三ヶ月くらい経った頃。。。

彼女からいよいよ「デートに行く!」と報告を受けた。なんでもディズニーランドを計画しているという。

結果、行ったのは池袋の水族館だったようだけど、それはそれは何度も繰り返し楽しかった話を彼女から聞かされた。「ヤレたかも委員会」にかけたら絶対ヤレたはずなのに(笑)

 

彼女はキスぐらいしたのだろうか。シンさんは彼女の潤んだ瞳を見ることができたのだろうか。

 

シンさんに水族館のことを聞くと「楽しかったです」とはにかんだ笑顔でかわされて、そのとき今までは「照れているのかな?」って思っていたシンさんの笑顔が、なんだかちょっとだけ憂いを含んだ笑顔に見えたのは、気のせいにしておきたかった。

 

 

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ある日、昼のアルバイトの時間にシンさんが来なかった。

こんなことは過去に一度もなかったし、遅刻したこともなかった。

原因はわからないし土曜日で忙しかったので放置したままになったけど、とうとう夜になっても連絡がつかないまま。携帯電話(当時はガラケー)も持っているはずなのだけど、電源が切られているのかとうとう繋がらなかった。

 

翌日、バイトに入っていない彼女がわざわざ店に来て事の顛末を話してくれた。

シンさんは強制捜査にあって不法滞在が発覚して現行犯逮捕。入国管理局に送還されたのだ。

シンさんは同じ中国人の友人とアパートを借りて暮らしていたのだけれど、どうもその一緒に暮らしていた中国人の素行があまり良くなく、近隣住民に反感を買っていたらしいのだ。そして、その近隣住民の通報により当局の捜査に引っかかり、アパートの周囲を固められたシンさんはパスポートの提示を求められ、ビザの切れた状態で滞在していたことが判明してしまったのだ。

そういえばお店でアルバイト採用するとき、ビザの提示は求めなかった。これは本当迂闊だった。

彼女は近隣住民にひとりで聞き込みをして事の顛末を知り、わざわざ港区にある入国管理局まで行ったそうなのだが、面談はまだできなかったそう。見た限り彼女は寝ていなかった。

入国管理局からいつ中国へ強制送還されるかは誰にもわからない。必要な手続きなどが終わればそのまま出国するのだけど、強制送還される本人から連絡はできないし(携帯などすべて一時預かりされている)まずもってそこは留置場なのだ。

 

彼女は学校の授業を極力休んでシンさんに会いに行った。会いに行っても彼女とシンさんの間には透明な強化プラスチックがあるのだけれど。

 

差し入れはかなり自由が利き、コーラが大好きなシンさんのため行くたびにペットボトルを差し入れをしていた。そうして、短い接見時間を最大限利用してたくさん話をした。いつ終わりが来るともわからないのに。

 

涙をみせることは絶対だめだと、彼女は悲しい気持ちを抑えて終始明るく過ごすことに努めた。

 

毎日のようにシンさんに会って何を話したかを報告する彼女を、どうして不憫に思うことができるだろう。見る限り彼女は楽しそうで、僕も話を聞きながら大笑いしたり。

 

 

 

でもそれも長くは続かなかった。

 

 

 

その日、

とうとう彼女は泣きだしてしまった。

 

僕に携帯電話を差しだしてくる。

そこにはシンさんからの留守番電話が入っていて、空港からの電話だった。

彼女はその日どうしても抜けられない授業があり、授業の休み時間にその留守番電話に気づいたという。

そっと耳に近づけて再生してみる。。。

 

ユウちゃん

ユウちゃん

大好きなユウちゃん

もう会えなくなるけど

ユウちゃん

ユウちゃん

ありがとう

もうれんらく、できないけど

また日本に行くよ

ユウちゃん

さよなら

ユウちゃん

ユウ  ------

 

 

 

消え入りそうな声で、シンさんの告白が入っていた。途切れ途切れに声が入っていて、途中で時間がきて切れてしまっている。

シンさんは一度本国に帰り、ちゃんとビザを発行してもらって正規な状態で入国しようと決心した矢先の出来事だったと彼女が教えてくれた。そういうものである。

 

 

 

その後日常を取り戻し、ゆるやかに日々は過ぎ、時がきて、彼女は大学を卒業。アルバイトを辞めていった。

 

 

その後何年かしてこのお店は閉めてしまうことになるんだけど、あと10日ほどで閉店するというその間際、彼女はお店に寄ってくれた。久しぶりに会った彼女は、あの携帯電話を見せてくれた。もう使うことはないけれど、携帯は解約しないのだという。留守番電話サービスは解約するとその情報が失われてしまうのだ。

 

彼女が携帯電話を解約するとき、あたらしい恋が始まるのかもしれないな、と僕は思っている。ただ、30歳をとうに越えた彼女はまだ結婚をしていない。

ペスがいた日 短歌連作

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ペスがいた日 / たかはし みさお

 

ダンボール親元離れ悲しみの汚れた君はうちの子になる

日は暮れて夜もベソベソする君を「ペス」とこれから呼ぶことにする

いままでは起きることない時間でもただひたすらに早起きをする

ねえ行くの?行くの?行くの!とクルクルと右に左にペスは跳びはね

「ほら出来た」逆上がりする僕のそば見つめるペスはだらしない舌

ややズレて縫い付けられたアップリケ 家族だけしか犬とわからぬ

 

 

学校はつまらなくてもペスがいるペスがいるからペスがいるなら

押し込んだ ペスはバナナが大嫌い上目遣いで申しわけなく

雪が降る ジャンプしながら口を開けクルクル回る寒くないのか?

稲刈りの後の田んぼを猛然と走る走る 突っ走るペス

ペスはただ ただひたすらにかしこまり晩ごはん待つ ただひたすらに

鳴り響く夕暮れの空高らかに遠吠えハモる防災無線

高校に通う毎日たのしくて 夜の散歩はおざなりになる

 

 

 

ペスはもう歳を重ねたおじいちゃん テニスボールを横目で見てる

雪が降る 犬小屋のなか伏せたまま じっとしている歳をとったな

 

 

 

医者は言う「強い薬になります」と ペスはどうして黙っていたの  

別れとは知らぬ間にカウントが始まっていて ただゼロになる

なんでだよもう少しだけ生きていて ただそう思う ただそう願う

横たわるペスは申しわけなさそうな 上目遣いでお決まりの顔

ゆっくりと瞳を閉じる まだだよと心は叫び声にならない

 

 

 

ペスはもう準備をしてた 目を瞑り虹を渡って空の子になる

もう息をしていなくても横たわるペスのそばから離れられない

泣きながら見上げた空は幾千の星が瞬くきみの見る空

餌皿と首輪を庭に埋めましたごめんね ごめんね ごめんね ごめんね 

 

 

 

がらんどう今日からひとりわかってる しなくてもいい寄り道をした

空の子は忘れたことにしていても時折滲む雨の五月に

添い遂げて別れてもなお日だまりに想いを馳せる愛というもの

 

 

ぼくの描く物語にはペスがいて千切れるほどに今も尾をふる

 

 

 

ペスは小学生のころから飼っていた雑種犬で、僕の友だちでした。ペスが亡くなってからは二度と動物など飼うまいと思っていましたが、最近は「にこつ」という猫を飼い始めて五年になります。最近はTwitterにUPしたりしてますよね。

 

小さいころはペスがいること自体"ふつう"になってしまい、雨が降ったり寒かったりすると散歩を休んだり、学校が面白くなってペスと遊ばなくなったり。

でも、終わりってほんとうに突然やってくるのです。思い知りました。初めて家に貰われてきたときからずっと別れのカウントダウンは進行していたんですよね。

いつゼロになるかなんて誰にもわからない。

このときを境に、僕はずっとこう考えているのです。

 

連作28首。「ペスがいた日」でした。(#うたの日から抜粋+加筆修正あり)